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2019.07.01
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カテゴリ:昭和期・新感覚派
  『山の音』川端康成(岩波文庫)

 本当に久しぶりにこの小説を再読しました。
 前回読んだのは、恐らく私が大学の二年生か三年生くらいだったと思います。なぜそんなことが分かるかというと、その頃本書を読んでこれを卒論にしてもいいかなぁと思ったのを、今も覚えているからです。

 結局私は本書を卒論にはしませんでしたが(本ブログで何度か触れましたが、私の大学の卒論は谷崎潤一郎でした)、しかし今回改めて思ったのは、あの頃の私はどの程度この小説を理解していたのだろうかということです。だって、本書のテーマは、簡単にざっくり言えば「老境の疎外感」ではありませんか。せめてそれくらいは読みとって、その上で卒論にしてもいいかなーと私は思っていたのでしょうかねー。(もしもそうなら、それはそれでなんだかねじれたチョイスのような気もしますね。)

 さて私は、この度本書を読みながらあれこれ思ったり感じたりしていたのですが、上記に触れたようにこの小説のテーマが「老い」だとすれば、まず連想的に浮かんだのは谷崎潤一郎の小説『鍵』や『瘋癲老人日記』でした。そこで、特に『鍵』と本書について、幾つかの項目を比較しつつチェックしてみました。

 『山の音』→
   昭和24年執筆・川端50歳・主人公設定60歳・日本男性平均寿命56歳
   (ただし『山の音』は昭和24年から29年の執筆)
 『鍵』→
   昭和31年執筆・谷崎70歳・主人公設定56歳・日本男性平均寿命64歳

 どうですか。なんか、いろんな事が見えてきそうな比較ですね。
 今回これらをチェックして私が一番におやっと思ったのは、『山の音』の方が先に書かれていると言うことでした。私は、逆のように、つまり『鍵』の方が先に書かれたように錯覚していました。

 そしてついでに思ったのが、この順ならば、特に『鍵』の後の谷崎の『瘋癲老人日記』は『山の音』に触発されたのではないのか、ということでした。どちらも息子の嫁に対する恋心の話であります。
 (と、思っていたらウィキペディアにやはりそんなことが書いてありました。中村光夫が同じ事を指摘したら、川端本人が「谷崎さんは読んでませんよ。そんなものは」と受け流した、と。うーん、なかなか魅力的なエピソードですね。)

 再び上記の比較を見ます。やはり引っかかるのは『山の音』の主人公・信吾の年齢が60歳だということですかね。
 信吾は会社重役か社長の設定ですが、その頃の男の平均寿命と比べるとかなり高齢に設定されていることに気が付きます。
 仮に現在の平均寿命であてはめると、信吾は80歳台後半になってきますが、まだ現役で毎日通勤をしているあたり、ちょっとどこか非現実的な年齢のような気もします。(それともその頃は会社経営もどこかのんびりしていて、「社長も老後の名誉職」みたいなところがあったのかも知れませんね。今では信じられないような。)

 実際のところ、信吾の精神状態は、ほぼ執筆時の川端の年齢(50歳)くらいのものが描かれているように思います。
 では、何がそこに描かれているかと言えば、上記に触れた「老境の疎外感」でしょうが、これが本当に見事に描かれています。

 そもそも本小説は16の章によって分けられているのですが(それが執筆された経緯は、いかにも川端的なものなのですが)、各章のエピソードの出し入れが何とも無手勝流で縦横無尽で惚れ惚れとします。

 各章どこをとっても凄いのですが、冒頭の、少し前まで家にいた女中の名前を忘れてしまう話から、妻が小さないびきをかく話、庭の老木が新芽を出す話、縁の下で行われた犬のお産の話などなど、どれをとっても極めて小説的・象徴的であります。

 私は読みながら何度か、現代の若手作家の描くエピソードの出し入れとどう違うのだろうかと考えたのですが、しかしなんだかよく分からないのですが、とにかく細やかさと滑らかさがまるで違うように感じました。
 本書の場合は、エピソードが全然「段取り」ではありません。継ぎ目がありません。
 うまく言えないのですが、読み手への感情の染み込み方が全く違います。水が砂に染み込むようなしっとり感が全く異なるように思います。

 しかし、もちろんそこに描かれているエピソードは快いものではなく、老いの不安や死そのものをイメージするものがほとんどです。
 特に強烈なのは、日常生活の中に突然何の前触れもなく姿を現す、裂け目のような老いへの無力感・疎外感のエピソードです。

 これらの挿話は、どれを取っても本当にそれはそれは凄いのですが、例えば物語後半始まりあたりの「鳥の家」の章では、鳶の話から始まって蛇の話になり、そしていきなり息子の嫁の人工妊娠中絶の話に移っていきます。このエピソードの飛び石のような連想とリズム感は抜群で、ぐいぐいと読ませていきます。

 そして、やはり川端作品といえば描かれる「エロス」(老境の男が息子の嫁に対して感じるという、これも実に川端的な不道徳的退廃的爛熟的そしてそれゆえの甘美極まる「エロス」)についても、本書においてはそれが「老い」の対照物として設定されている(「老い・死」に対する「生・性」)ゆえに、どちらへもの抜群の相乗効果を現し、凄惨なばかりの「エロス」となっています。

 ……、さて、という風に私は今回本書を、やはりため息が出るばかりに惚れ惚れと読みました。(大学二、三年時の私もそうだったのでしょうか。)
 本書は、戦後日本の小説の最高峰だと評価されるものであると、これもウィキペディアにありましたが、最高峰とは、本書が本当にとても小説らしい小説、堂々たる小説という意味であるのなら、全くその通りだと、私は思うばかりであります。


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Last updated  2019.07.01 08:47:31
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