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近代日本文学史メジャーのマイナー

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2020.04.21
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  『山月記・李陵』中島敦(岩波文庫)

 「山月記」についての報告の3回目になります。
 今回は、三つのその理由を考えたいと思います。特に三つめが、この度「勉強」をしていて新しく「はっ」と思ったものでありますが……。

(1)李徴の説く虎になった理由・その一
           ……「存在論的な不安」

 李徴の告白の中に、なぜ虎になったかの自己分析が、三点に分けて描かれています。それを順に追っていこうと思います。

 まず一点目は「存在論的な不安」ですが、李徴の告白が最初に触れているのがこれですね。
 「理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きていくのが、我々生きもののさだめだ。」という李徴の言葉は、ほぼすべての中島作品に通底する「世界のきびしい悪意」であり「存在の懼れ=存在論的不安」であります。
 中島は、自らのそんな思考傾向を「狼疾」と解釈し説明しています。

 中島の説く「狼疾」とは、そもそもの中国古典においては、指一本が惜しいばかりに、肩や背まで失うのに気が付かない、それを狼疾の人という、というものです。

 その概念を中島は、例えば自分が自分であり他者でないことの孤絶感など、根源的な「存在」や「観念」の無根拠性に囚われるあまり、現実の世界や人間存在を見失ってしまう人間、つまり自分がそうであると感じています。

 中島のそのような思考傾向の原因については、母親をめぐる出生期から少年期にかけての「不幸・不安」(2歳で両親が離婚し父のもとで育てられ、5歳で最初の継母と住むが14歳でその継母が亡くなり、15歳で二人目の継母と住む)や、青春期に発症し中島の宿痾となった「喘息」という病気の存在がまず挙げられます。(喘息の発症は、彼の小説制作活動の始まりと重なっています。)

 また、「狼疾記」には、主人公が小学4年時に教師から、地球がいずれ冷却し人類は滅亡するという話を聞かされ激しい肉体的恐怖に襲われたという逸話があり、ここには単なる自我の不安では言い表せないもっと根源的な恐怖感覚が、中島の生来のものとしてあったことをうかがわせます。

 「山月記」の「化虎」の論理も、いわば中島の持って生まれたこのような思考傾向の延長上に展開されていることがわかります。

(2)李徴の説く虎になった理由・その二
        ……「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」

 本文の展開から考えれば、おそらく「化虎」の理由の中心として描かれている「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」です。
 この部分こそが、「山月記」のテーマが自我の分裂という近代知識人の問題であり、人間の心のダイナミズム、人間の内面劇の葛藤を描いた名作と言わしめた部分であります。

 中島の妻(中島たか)は、中島亡き後の文章で、「山月記」を読み「まるで中島の声が聞こえる様」だと書きましたが、確かに中島の生涯にも同様の傾向がみられます。

 作品内の話ですが、そもそも李徴の時代に詩人として名を挙げるにはどのような方法があったのでしょうか。
 詩集を出せるわけもなく、社交の場で漢詩を読み上げることで名を挙げるしかありませんでした。そんな時代に、李徴はまず最重要な、人と交わることをしなかったのであります。

 中島も積極的に小説を世に問おうとしませんでした。
 一高在学中は文芸部員として校友会雑誌に作品の発表もありました(昭和5年)が、その後、「中央公論」新人賞に応募した作品(「虎狩」)一作を例外として、出世作「古潭」(昭和17年・「文学界」)まで発表作品は空白となっています。
 中島は、李徴と同様、本来作品を世に問うことで自分の文学に新しい展開が開けるはずであったのに、それをほとんどなさなかったのです。

 それについては、3点の指摘があります。
  ①中島が正真正銘、天性のはにかみやであったという指摘。
  ②「虎狩」が選外佳作であったことによる屈辱感。
  ③発表の空白期間中に書いていた長編小説「北方行」(未完)の
   失敗による自信の喪失。

 しかし、李徴の行動からもうかがえますが、中島の行動には、小説家になることを強く願いながら、同時に、小説家(=表現者)になり切ることを恐れ、そのために努力を拒絶しているとしか考えられないような不可解なものがあります。これは、一体何なのでしょうか。
 それは、「理由・その三」につながるものです。

 次回、「理由・その三」を考えて、一気に最後まで行きます。
 すみません、続きます。


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Last updated  2020.04.21 08:34:51
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