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カテゴリ:はっとする気づき編
いらっしゃいませ、マスターの濱田です。
「もうなにもいう必要がないのだろう?」 この言葉は2年前、7日間の坐禅の最中、 一緒に参禅していた友人が老師から言われているのを、 横にいて耳にした言葉です。 当時のわたしには、この言葉が伝える真意を 理解することは出来ていませんでした。 わたしたちは、感情で「ああ、そうか!」、 「まったくその通り!」と、青空の下、ポンと手を叩くような、 空が隅々まで晴れ渡るような感覚を味わえない時でも、 なんとか納得したいという欲求の感情にやられます。 たとえ腑に落ちていなくても、感情で納得できなくても、 理屈ででもなんとかおとしどころをみつけたいという 衝動を抑えられないものです。 そしてわたしたちの多くは、自分がその衝動を抑えられなくて、 もがき苦しんでしまってきたことに、 気づかないことさえ、気づかずにきました。 それほどまでに、わたしたちは腑に落ちなくてでも、 どこか納得できそうな、理解できそうな、 「おとしどころ」、「つかまれそうな綱」を持っていたいようです。 でも、本当に腑に落ちる時、 または、追い求めていたものに答えが そもそもないということが見えるとき、 または、自分が答えが出ないものに、 無理やり着地点を作っておきたかったと気づいた時。 わざわざそれを、証明することも、 説明することも必要のないところに辿り着きます。 証明したり、説明したりする必要などそもそもなったよな。 探していたのは、おとしどころではなく、 実は自分の居場所が欲しかったんだな。 「自分は、ここにいるよ。」 「だから、自分のことを忘れないで。」 「ちゃんとこっちをみてよ。」 「自分、これだったらいい?」って、ところにいたことに気づく時、 寂しかったことに気づくとき、 アピールしないと、誰もみてくれないと信じていたことに気づくとき、 自分がその場所にいたことが、はじめて見えてきます。 そして、そのことに気づいた時、 もうなにもいう必要がないところに至りました。 そして、もうなにもいう必要がないと気づいた時、 はじめから、なにもいう必要がなかったことに、ようやく気づくことができました。 不足を感じさせられていたのではなく、 不足は自分が信じていた幻想だったのです。 本日は当店に、お越しいただき、本当にありがとうございます。 またのお越しを、心よりお待ちしております。 いってらっしゃいませ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
February 11, 2009 03:22:32 AM
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