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カテゴリ:今日の一言
科学を人類は扱えるのか...。
科学が持て囃され、人々が科学の発達に熱狂したと報道される時代があったことは事実。 しかしながら、その科学の発達に熱狂している、もしくは、熱狂していた熱烈なファンという方々に、実のところ私は今までお会いしたことがないのです。 学問としても科学という分野において、研究などが進められることは、どの分野の研究などでもそうですが、そういった研究を続けていくことは研究者の自由であり、権利だと主張される方々もいらっしゃることでしょう。 しかし、それが環境破壊などにつながっていたり、人々の生活を脅かしていたりという部分についての行き過ぎに関しては、科学だけに限った話ではないですが、議論されてしかるべきであろうと思われる。 科学の歴史を振り返ってみると、実に平和利用などと有名な科学者の方たちは、それがいかにも合言葉であるかのように言い残してこの世を去っている。 また、そういった言葉が残されており、人々の目に触れるということは、言い方を変えればそれだけ、科学というものが平和的利用とは名ばかりで、そういったこととはほど遠い危険な利用の仕方をされてきた事実が浮き彫りになってくる。 時代の変遷期である現代に、たまたま存在している我々も賛否両論ありながらいろんな意見交換をしていく時期であることは明らかなこと。 私が大学時代に学ばされたマルクスやエンゲルスの経済理論などにもいえることであると言われておりますが、学問などでは純粋な理論を追及していく姿勢を問われ、追及され、集約されといった風に発達してきたのですが、今の時代に問われているのはそういった知識などを扱う側の人間の倫理観や道徳観が問われている。 ずっとデータなどを積み重ねて、研究が進められれば、成果などは上がっていくと単純に考えればそうなるはずなのですが、我々が永遠の命が与えられるわけではなく、オギャーと生まれて猿から成長する過程を経なければ成長できないことを鑑みますと、既に今ある専門的な知識や経験などは、我々のような100年単位で世代がガラリと変わってしまう生物に果たして取り扱えるのかどうかということを、真剣に話し合わなければならない時代に突入しているのではないのであろうかと思われます。 原発のストレステストにしろ、テストされる側がチェック項目などを個条書きにしなければ、調べる政府の検査官がどのようなことを調査しなければストレステストを実施したということになり得ないのかなどということすら、理解できないようなものを国の責任下で監視し運営できるのかどうか。 そして、今の時代に問われているのは、人間の倫理観や道徳観はコントロールなどできないという方々が大勢いらっしゃる状態で、そのようなものをどんどんどんどん建設していく危険性との兼ね合いをどのようにつけていけるのか。 大きな大きな疑問符しか出ません。 皆さんはどうお考えになられますでしょうか。 今日もよろしくお願いいたします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年01月16日 08時16分58秒
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