公平と不公平
今日のぐっと来た記事
■水俣と福島に共通する10の手口■
1、誰も責任を取らない/縦割り組織を利用する
2、被害者や世論を混乱させ、「賛否両論」に持ち込む
3、被害者同士を対立させる
4、データを取らない/証拠を残さない
5、ひたすら時間稼ぎをする
6、被害を過小評価するような調査をする
7、被害者を疲弊させ、あきらめさせる
8、認定制度を作り、被害者数を絞り込む
9、海外に情報を発信しない
10、御用学者を呼び、国際会議を開く(特集ワイド:かつて水俣を、今福島を追う アイリーン・美緒子・スミスさんに聞くより 抜粋)
世の中には、完全なる公平性などということは存在し得ない、そこには勝ち負けという勝敗があり、勝った側の言い分が残されるだけである。
このことを踏まえましても、なお、納得しかねる子供の無邪気な30半ば過ぎオヤジがここにおります。
常々感じますことは、それでは、なぜ法律や憲法などがあるのか。
なぜ、刑務所や警察などに取り締まられなければならないのか。
なぜ、弱者のみがいつの世も暴かれるのか。
こういったことに対しての疑問は、幼少よりずっと色濃く残っておりますが、いまだに一向に自分自身はもちろんのこと親として子供たちにうまく説明できるような答えは出ておりません。
全くが意味不明でちんぷんかんぷんです。
どこの国にもございますが、日本国内にも刑務所が御座います。
いろんなルールなどを守らなかった場合い、刑務所に入れられる方々が存在しますね。
しかしながら、どの方が刑務所に送られ、どの方が同じような悪行を働いても、それ以上の悪行に手を染めていても、事件にすら発展しないことがあるのはなぜなのか。
全く理解に苦しむことが世の中では平気でまかり通ってしまうのですね。
そういった原因はどのように構築されるのか。
いろんな角度から眺めてみますと、いじめ問題にもよく似ていることが分かるのです。
受け入れることを、求める側と求められる側、この双方が存在して初めて成立する概念なのです。
ここでの問題は、どちらか一方がが拒否し続けたとしても、もう一方が拒否することを認めない場合は、平行線での論議が続き人の一生を台無しにしてしまう可能性があるという点です。
ですから、そこでも冒頭で抜粋しましたが、被害者を疲弊させ、あきらめさせることが目的に平然と行われてしまうのです。
資金力の勝る方が有耶無耶にする、もしくは金でもみ消す。
それが世の中の縮図だと致しましても、それに甘んじる限りは、何一つ改善されず、より一層の住みにくい世の中がどんどんどんどん形成されていってしまい、今の福島原発事故対応といったような、誰がどう眺めましてもおかしいという一言で尽きる事柄が、罷り通ろうとしてしまいそうな世の中になっていくのです。
もし、今回のこの件が有耶無耶に処理されてしまうようなことになるのでしたら、私は日本という国自体の存在意義などないと感じます。
大げさでも誇張でもなく、そこには怒りも蔑みも含まずとも、そうとしか言いようがない由々しき事態であると感じてしまうのです。
それが罷り通る世の中とは、犯す人たちが、何が違うというのですか、何が間違っていますか、と開き直られてしまう世の中を国民が認めたということに他ならないのです。
それとこれは違うなどという理論が存在し得なくなるのですから。
ライオンが、お腹が減ったから目の前にいるウサギを捕まえて食べる行為と、同じ感覚で犯罪が公で行われるような世の中に近づいていくことは自明の心理であると思われます。
本当にそんな世の中になってしまっても良いのでしょうか。
私はとてもそうは思えませんが、皆さんはどう考えておられますでしょうか。
ひとりひとりが、もっと真剣にお互いを尊重し合い、本当の意味合いでの公平性という意味合いを模索していかなければ、いずれは私たち自身や身近な身内に災難が降りかかる。
それが世の中というもの。
そういったことを踏まえての自由や権利であり、その上での社会という営みではなかろうかと...。
今日もよろしくお願いいたします。