錦の色の美しさ 鈴木春信
「美の巨人たち」で鈴木春信(1725?-1770、明和)の錦絵を見て、中間色の色使いに惹かれました。錦絵というと色使いが派手な印象でしたが、彼の淡く和やかな色使いに共感しました。久しぶりに絵の世界に没入。彼は二十台は初期の浮世絵師、菱川師宣と並ぶ、上方の西川裕信に学び、三十過ぎて江戸に戻って活躍。当時、浮世絵は色数が限られてましたが、春信たちは版木を摺り重ねる技術を考案し、1765年(明和2)、多色摺りの「錦絵」を実現。当初は墨の単色だった浮世絵に、一枚ずつ手書きで色を付けるようになっていましたが、大量に作れない。そこで色ごとに版木を作り、多色刷り可能になり、錦絵に発展。その技術を考案したのが、エレキテルを発明した平賀源内。春信と同じ神田に住んでいた縁もあり、春信の依頼を受けたそうです。版木の隅(すみ)っこに、見当(けんとう)という摺る用紙の位置決めをする溝を付けたのです。この発明から、「見当を付ける」とか、「見当違い」という表現が今に残っているというので、意外な由来にへぇ~、と思いました。彼らの創作活動がなければフランスの印象派の発展はなかったでしょう。色彩、構図、遠近法、題材の取り上げ方など、色々な面でフランス絵画に強い影響を与えました。ゴッホは安藤広重「名所江戸百景 大川橋・あたけの夕立」を真似して油絵を書いたりもしています。The bridge in the rain (after Hiroshige),1887,Parisたばこと塩の博物館鈴木春信 「お仙茶屋」江戸の谷中(やなか)の笠森稲荷の前に、鍵屋という茶屋があって、お仙という美しい看板娘がいたのです。明和の三美人の一人としてアイドル的な人気を博していた彼女の錦絵。身分を問わず、ブロマイドやポスターのようにして持つのが流行していたのでしょうかね。番組で紹介されていた春信の人気作品「雨夜の宮詣で」この娘も、当時江戸で人気の水茶屋の看板娘、お仙ちゃん。着物の裾や帯が風で後ろに流れ、体をよじるポーズが可愛らしくて、お仙ちゃん、雨のなかどこへ行くの?と声をかけたくなる。この絵は、紀貫之が蟻通明(ありどおし)神の化身に助けられた逸話の見立(みたて)だということです。見立とは、持っている絵を見せ合って、その絵に隠されている文学的な逸話をあてっこする教養ゲームをしていた時に使う絵のようです。この絵の場合、破れた傘、神社の前、などがヒントだそうです。なんという文化度が高くて精神的に豊かな国だったことか。「夕立」紫と朱色の対比がきれいです。この絵には「絵暦」が隠されています。干されている着物の柄ですね。太陰暦では大の月と小の月があります。それが柄に似せて文字として書いてあるそうです。大という字はわかりますね。明和の頃は、裕福な趣味人の間で、絵暦(えごよみ)を美しい摺り物に仕立てたものをコレクションして交換することが大流行。インテリな趣味人たちのニーズに応えて、物語や和歌や俳諧などから幅広く題材を求めていたのです。彼の文学への造詣が深さも伺えます。「三十六歌仙 源 重之」 明和四~五(1767~68)年 MOA美術館?「風をいたみ 岩うつ浪の おのれのみ くだけてものを おもふころ哉」「三十六歌仙」は平安の和歌を題材に、歌意にちなんだ江戸の日常の風俗に置き換えて描かれたシリーズ作品。この絵は、笠を被った振袖姿の良家の娘が下女を連れて物見遊山している情景です。「岩を打つほどの強い風」に裾や袂をなびかせる姿。風になびく振袖や裾と波のうねり。色彩のコントラストもよし。岩を指す下女の着物の「緑」と、笠を被ってる娘の衣装の「赤」。波の部分は版木に絵の具をつけず、紙を押し付けて、盛り上げる“きめ出し”(エンボス)という特殊な技法で表現!「夜の梅」白い梅の花の枝、廊下に立つ乙女の顔と手と下着の白、差し出す手燭のあかりの白。夜の闇をあらわす黒のバックに浮き出ています。色彩の自由が許された時点で春信は、かえって黒と白が持つ豊かさを引き立てる表現力に気づかされたのでしょう。色を与えない「虚」のなかに、色以上の「実」を表わす鮮やかな手腕。ちょっと遊んでみてください。このサイトで、「夜の梅」でジグソーパズルができます。プラグイン(無料)のFlashPlayer入ってれば。春信の時代は8代将軍吉宗から10代将軍家治のころで、杉田玄白、伊能忠敬、平賀源内が活躍したり、市井には自由で明るい空気が流れていました。振袖など華やかな衣装からも時代の雰囲気を感じられます。お仙など市井の美人をも浮世絵にするなどして一躍、人気絵師になった彼ですが、明和7年に急死。活躍したのはわずか5年。「錦絵」を実現してからたった5年。多くは謎に包まれているのだそうです。