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カテゴリ:読書と自分と
ミステリ・オペラ(下) 宿命城殺人事件 (ハヤカワ文庫) ミステリ・オペラ(上) 宿命城殺人事件 (ハヤカワ文庫) 山田正紀さんの『ミステリオペラ』は、7月後半からはじめて10月中ごろに読みきった。 第2回「本格ミステリ大賞」(2002年)の受賞作。 上下併せて、1000ページを超える大作。 自分の記憶の中では、山田さんはSF作家としてデビューして、SF風味の冒険小説も手掛ける作家さん。ミステリの本格とは、ちょっと馴じまない気がする。 しかし、ミステリというジャンルが長いときを経たために、「新機軸」とか「この手があったか」とかの惹句がありがたがられている21世紀。 山田さんの個性をも、ミステリ業界は本格派として呑み込んでしまうのか、と、傍観者的な興味が先にたって読み始めました。 実は、悪食対決です。 少女マンガだろうが、時代劇だろうが、戦記ものだろうが、どんなジャンルでも呑みこんできたSFというジャンルを、老練のミステリ業界がまるめこんで味方につけてしまうのか、オロチ対ガマの化け物みたいな、とてもおおきな対決のように思えたもので。 たしか、40年も前に読んだ「アシモフのミステリ世界」とかいう本の解説に、SFのジャンルでミステリは成立するのか、という疑問が呈されていた。たとえば、タイムマシンが普及した時代に、アリバイの概念は存在するのか、とか。 「不思議の成立と否定」、ミステリとSFは相反する方向性をもっているように思われます。 ありえないはずのものを、あるように見せるのがSF。 トリックを排除して、事実を洗い出すのがミステリ。 社会一般の常識のうえで共有されるミステリの謎解きと、 常識にひと味足すことで興味を膨らませるSFの開放感とは、 はじめから違うテーブルに乗っかっているはず。 「ミステリオペラ」の前半では、伝奇小説風の不思議な世界を出現させる。 南京事変ののちの満州国という、混沌の状況。なにかが起こっても、しかたのないような雰囲気。 SF作家としての仕事を果たしたのちに、幻想のタネを洗い出して現実の世界へ引き戻す、 手のひらを返したような終盤。 この本では「消去法の推理」が使われていた。 不可解な状況を合理的に説明するには、この方法しかありえない。 なので、この方法でなされたに違いない。という論法。 物証でも、自供でもなく、推論に基づく犯人の絞り込み。 指紋も足跡もないのに、その時刻にそのエリアにいた人のなかに犯人はいる。という前提。 安倍首相の得意とするところの「そんな非常識なことするはずはないじゃないですか。」と同じかな。 役人は誠実に職務を遂行するのが務めだから、当然にそうしているし、 政治家は国民のためにはたらく者だから、その行為はみんな国民のためになっている。 検証されることもなく、物証を提示することもなく、あるべきとおりに存在しているはずという、 うすっぺらな過信。 本格から縁遠いのか、本格に新しい軸が生まれたのか。 「ミステリの本格」ってのが、わからなくなりました。 作中の右翼の大物は、歴史解釈を捻じ曲げることに躊躇もなく、 神代の遺物を確実な根拠もなく、天照大御神に関連する物品としてみたり、 オペラ「魔笛」を、語族協和の正当化に使用したりと、 われ思うゆえに、解釈あり。 主観と論法によって、歴史も社会も変容させられてしまってあたりまえ。 「真実よりも思想」というのは、戦前にはあたりまえにあったことに。 こまかいことは、まあいいけどね。 でも、屋上の窓の鍵が、屋内からは操作できず、 屋外からのみ施錠も開錠もできるというあたり。 病み上がりの作者が、意識の回復とともに書き上げたという大作。 幻想を含む物語と、合理的な物語と、 読者はどちらに惹かれますか、との問を、投げ込まれた本でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年01月08日 20時40分08秒
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