日本の中世末期
中世末期の日本の変化は、社会の発展がその基礎にあり、南蛮人の影響でおこったのではない。その発展を一向宗と法華宗いう二つの宗教がささえました。親鸞のひらいた一向宗(真宗)は、農民ばかりでなく、渡り商人、金掘りや手工業者をふくんでいます。かれらは、身分的には社会の下層でしたが、強い団結力と旺盛な生産活動で、しだいに経済的実権をにぎります。室町時代の都市の発達は、かれらの力によるところが大きいのです。農村では、番頭・名主などの有力農民が、村の中心に道場をたて、本願寺から阿弥陀如来像や名号をもらいうけ、蓮如が本願寺住持となってからは、この勢いはにわかに進み、全国的に農村・浦・山村が本願寺のもとに統合されるようになった。一四八八(長享二)年、教団は加賀守護富樫正親をほろぼし、一国を「百姓ノ持タル国」にしています。これから、北陸・近畿・東海にその動きは大きくうずまいて応仁の乱で焦土となった京都では、町衆が主体となって復興しました。この町衆が土倉衆の富力と公家衆の教養にささえられ、市民的人間に成長しました。日蓮の教えは、その功利主義的傾向と一致して町衆にうけ入れられ、一五三二(天文元)年、町衆の法華一揆は本願寺を焼き、これから五か年の間、京都の支配を実現します。信長や秀吉の天下統一は、これらのもりあがる民衆の力を、あるときは弾圧し、あるときは利用し、ついに国内に平和をもたらしたのです。