後鳥羽上皇の院宣
1221年5月に後鳥羽上皇は院宣という命令書を出し、全国の武士に北条義時を倒すよう命令しました。京都近隣の武士が中心となり幕府を倒すために挙兵したのです。 院宣を出した後鳥羽上皇は「朝廷の命令なら全国の武士も従って、鎌倉幕府を倒すだろう」と考えていました。また、鎌倉幕府の武士たちも実際に激しく動揺します。そんなときに北条政子が演説を行ったのです。北条政子の演説の言葉として「故頼朝公の恩は山よりも高く、海よりも深い」という有名なものがあります。一致団結し、鎌倉幕府を開いた源頼朝への恩を返すときだ、という内容でした。これに感動した武士たちは北条氏につくことを決めますが、それだけでなく、多くの武士たちは朝廷と幕府のどちらにつくのが有利か考え、幕府につくことを選んだと言われています。そして北条義時の息子である北条泰時を中心とした幕府軍は鎌倉を出発し、さらに全国からも武士たちが集まり約20万人にも膨れ上がります。