損得について 3 (善悪について 3)
皆さんは多分この日記を最初に見ると思いますが、今回は長い話の第3弾です。かなり長い話になったので3日分に別けました。自分のなかでもまとまっていないところが多いので、読みづらいかもしれません。あらかじめご了承ください。これまでのことを考えてきて、ふと思いついたことがあります。以前に「善と悪」について話したことがありますが、この道徳の善悪は損得と言い換えることはできないだろうか、と。つまり「利益」こそが「善」で、「損」こそが悪であると。しかしここで言いたいのは、目先だけの、そして個人的な「損得」ではなく、その社会全体に利益をもたらすもの、これが道徳の「善」になっていないでしょうか。例えば近親結婚。古く中国では儒教が国教となっていて、いまでもその教えは生活に根付いていますし、中国だけにとどまらず、韓国、日本にまで伝わっています。その儒教では近親結婚は厳重に禁止されています。理由は子孫が弱くなるから。競馬をかじっている方はわかるでしょうが、近親同士の交配では、子馬の体質が弱くなることが多いのです。これは馬だけでなく、地球上の生物のほとんどに共通することです。多分これまでの生活でこれらのことを理解してきたのでしょう。儒教ではたとえ近親でなくても、名字が一緒なら、それは同族とみなし、今でも、結婚は禁止されています。これは中国の影響を強く受けてきた韓国も同様です。ですが、儒教の影響を受けた日本の農村には、「いとこ同士は鴨の味」という古い言葉があるらしいのです。ここでの鴨とはご馳走を意味しています。つまり、古くから日本ではいとこ同士の結婚は好意的に認められてきているのです。同じ儒教の国でなぜこれほどまでに違うのでしょうか。知ってのとおり、日本の国土は平地が少ないです。それは農耕地が少ないことを意味し、土地の相続で、子供の数だけ分散すると、すぐ先細りになってしまいます。そんな時に同族同士で結婚すれば、土地が細分化されなくて済むという利益がでてきます。また、外部の人間を入れないことで、収穫物を同族内だけで分配できるという利益もでてきます。ですが、さすがにいとこ以内での結婚はそう多くはなかったらしいです。道徳の基が同じ国であっても、その社会での損得によって、これだけ「善悪」に違いを見ることができます。またまた続きますが、一息入れようと思います。その4の話は「道徳と同性愛」を予定しています。