天皇家の位牌
本日のお仕事終了♪あとは酒をかっくらうだけッス。最近は安~い、芋焼酎の水割り。まー何でも酔っ払えればいいんですが・・・ さて、「誰やねんっ20号」さんからナイスなご意見が出ました。「位牌」は鎌倉時代に禅宗と一緒に日本に入ってきた。よって、後白河天皇以前の天皇に位牌はなくて当然なのでは、という鋭い疑問です。では平安末期の後白河天皇以前の位牌は泉涌寺にないのか?というとあるんですね。前回は天武から称徳までなくて、称徳のすぐあとの光仁の位牌がある、と書きましたが、実は天武の直前の天智の位牌も泉涌寺にあるんです。これは何かというと、当然後代(鎌倉以降)の皇室関係者が、過去の天皇の位牌を祀ったことに他ならないですね。ここで問題なのは、なぜ初代神武からすべての天皇の位牌を祀らなかったか・・・これです!はっきりした理由はわからないけど、何かしらの理由があったはずですね。素盞嗚氏が想像するには、功績があった天皇の位牌は間違えなく祀ったと思うんです。そう考えると、天智の位牌があるのはわかるけど、天武の位牌がないのはなぜなのか?通説での解釈だと、古代において天武は天皇として最大の権力を手にしたはずだ。またその孫の文武は大宝律令というその後の政治体制を確立した律令を発布しているし、同じ天武の孫である元明に至っては日本書紀という初めて国史を編纂してますよね。天武の血筋が日本古代の基盤を確立したといってもいいわけです。それなのに、後代の皇室がその功績者である天皇の位牌を祀らなかった・・・通常では考えられないじゃないですか。やはり天武の血筋は九州倭国に関係している。以前、素盞嗚氏は天武について、蘇我入鹿の子であり、蘇我は九州倭国から大和に派遣されたと書きました。だから後代の皇室は、天武の血筋を泉涌寺に祀らなかった。そう解釈してます。さて、こうなるとまた新たな疑問が出てきました。最大の権力を手にしたはずの天武は本当に最高権力者だったのか・・・・これです。次回は天武の時代の倭国を想像していきます。 おっといけねぇ・・・・酒なんか呑んでる場合じゃねぇ、曲の構成を覚えなきゃ・・・・・・・・・明日にすっかな♪SEE YOU NEXT TIME