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カテゴリ:美術館日記
朝、ベランダに出たら、カーネーションが一輪咲いていた。 うすいピンクの花びらをめいっぱい広げ、朝日に顔を向けてきらきら光っている。 * ヴィルヘルム・ハンマースホイの展覧会、「静かなる詩情」をみる。 しずかだ。本当にしずか。 会場にはたくさんの人がいるのに、自分とハンマースホイの絵画以外、この世界には何もないと思わせるしずけさがカンヴァスを満たしている。 それにこの灰いろ。 白から黒のあいだには、こんなにもさまざまな色があったのか。 ハンマースホイはデンマークの画家。 19世紀から20世紀にかけて生きた。 「オランダ17世紀のフェルメールを思わせる写実的な室内表現が特徴」とパンフレットの解説にある。 何枚か見たところで気づく。 このひと、男だったんだ。 ポスターだけ見て、女性の画家だと思っていた。 裸婦でも、表情をとらえた肖像でもなく、ひっつめ髪の女性の後ろ姿なんて、女の人しか描かない、と勝手に思いこんでいたのかもしれない。 風景画に描かれるのは、主として建築だ。 空はくもり。人の姿はない。半びらきの窓から光がもれて、人がいる(いた?)気配だけがわずかに読みとれる。 いつか夢でみた、空っぽの町みたいだ。 そして、全作品の三分の一を占めるという室内画。 画家がじっさいに暮らしたコペンハーゲン、ストランゲーゼ30番地の古い部屋が、くり返し描かれる。 黒いドレスを身につけた妻イーダ。ほかにロイヤルコペンハーゲンのパンチボウル。ピアノ。ティーカップ。椅子。絵のない額ぶち。モチーフとなるものはごくわずかだ。 構図にとって余分な線はことごとくとり除かれ、そのために、二本しか脚のないピアノが壁から突きでていたりする。 光と影に多く語らせる点、細やかな筆はこびで質感を表現する技法はフェルメールに通じるが、一緒に展示されていた同時代の画家の作品と比べても、やはりハンマースホイの世界観は特異だ。 モノトーンに近い色調のせいもあるが、なんというか、世界がそこで完結している。 閉塞感とはちがう。 不安や緊張というのでもない。 一定の法則、韻律にしたがって息づく別の世界の存在を、たしかに感じさせるのだ。 たとえば鏡のむこうの国、見てはいけない決まりになっているその世界を、カンヴァスごしに垣間見てしまったという罪悪感が、強いて言えば少しだけ不安に似ているかもしれない。 その「世界」をあらゆる角度から見つめ、全ぼうにせまろうとしたのがこの画家の仕事ではなかったか。 スケールの大きな仕事だが、多彩な構図や野外でのスケッチは必要なかった。 むしろかぎられた空間で、かぎられた対象をみつめ、光と影の繊細な表情をとらえることで「世界」の全体像がみえてくる。わたしたちが生きるこの世界との相違が浮き彫りになる。 美術館を出た後も、しばらく余韻から抜けだせない。なんでもないコンクリートの建物を見つけると、足を止めてじっと見入ってしまう。 ああ、そうか。外へ広がることだけが想像力ではないのだな。 せっかく受けとった「ハンマースホイの種」を、落とさないよう、そっと胸に抱いて家路をいそぐ。 この秋の展覧会めぐり、最大の収穫かもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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