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カテゴリ:美術館日記
電車に乗って、小さなひとり旅をする。 といっても、乗車時間は片道半時間ほど。 ふたつ隣の町の美術館に、展覧会を観にゆくのです。 この土地で「電車に乗る」ということは、都市のそれとはほとんど意味が違うと言ってもいいくらい、別の感覚をあらわします。 電車の数は、一時間に一本あるかないか。 駅は無人、列車はワンマン、二両編成。扉は手動です。 乗っているのは、まだ車を運転できない高校生か、おじいさん、おばあさん。 この季節だと、さくらんぼ狩りのお客さんがいて、車内は思いのほか混んでいる。 ふだんは乗らない乗りものなので、切符を買って座席に座るだけで、非日常の旅気分がわき上がってきます。 電車のにおいや、規則正しい振動もなつかしい。 都会のように、「街」と「街」が切れ目なくつながっているわけではなく、「街」が途切れたあと、「果樹園」「田んぼ」「原っぱ」「川」…とさまざまな自然が登場した末にようやく次の「街」が見えてくるのも、旅情をかきたてられます。 車で移動すると、点から点へ、殻に閉じこもったままテレポーテーション(なつかしい言葉!)している感覚ですが、電車に乗ると、何となく線を引いている、風景に「参加している」感じを味わえるのもふしぎ。 おばあさんに乗り継ぎを聞かれたり、向かいに座っているおじさんの荷物からさくらんぼの甘いにおいがしたり、制服の女の子が何か一生けんめい読んでいる横顔を見たりするのも、なんだか新鮮。 目的の美術館に到着。 決して大きな施設ではないけれど、静かに質の高いコレクションがそろっている。 この土地で創業した会社の社長さんが、三代にわたり、百年をかけて大切に集めたものだそう。 邦画のコレクションもすばらしいのだけど、今回の展覧会は洋画。 19世紀から20世紀にかけてフランスで描かれた絵画、バルビゾン派と、印象派を中心に展示されている。 出品数は多くないけれど粒ぞろいの、見ごたえある展示。 少し前まで、モネやルノアールの、ゆらぐ光をとじこめた色彩ゆたかな画面が大好きだった。 だけど最近、ミレーの影のある農村風景や、シスレーの繊細な色づかいに心ひかれるようになった。 なぜだろうとぼんやり考えていたそのわけが、今日の展覧会で腑に落ちた。 それは、ここが日本海側だからだ。 日照時間がみじかく、雪や曇りの日が多い。そして身の回りには、田園風景があふれている。 この土地に慣れて、愛着がわいてきたから、この町で見える景色によく似た色や構図を好きと感じるようになったんだな。 展覧会で大きな収穫のひとつは、初めてユトリロの絵を見たこと。 ユトリロの白はとても哀しくて、静かで、儚くて、だけどほのかな希望を感じさせる。 孵化する前のひな鳥が、あたたかい殻の内側から透かし見た世界のよう。 ほかにも、今にも物語が始まりそうなアンリ・ルソーの町や、 ばら色に塗られたシャガールの肘掛け椅子。 晩年のシスレーがモレ・シュル・ロワンの町で見つめた、川面にうつる風景。 都会だったらうんと混雑してもおかしくない展覧会が、ここではほとんど貸切状態なのだ。 ミレーの茶色い羊飼いの少年が、憂いを帯びた切なげな横顔をしていたので、人がいないのをいいことに、ぐっと目を近づけて、線のひとつひとつまで舐めるように見る。 北のはずれの小さな美術館で、150年も前のフランスで描かれた絵をひとりじめできるなんて、なんという贅沢! うっとりしていたら、観光客らしい夫婦連れが背後に立って、 「ずいぶん小さな展覧会。ミレーは1枚しかないのね」とつぶやくのが聞こえた。 背すじがひやりとする。 そうです、ミレーが描いたこの羊飼いは、世界にたったひとりしかいない。 詩なら印刷して増やせるけど、絵は増やせない。 だからどんなにミレーの絵を好きと思っても、よっぽどのお金持ちじゃないかぎり、持って帰ることはできない。 また会いたくなったら、時間を作って、電車に揺られて、ひょっとしたらパスポートを片手に飛行機に乗って、絵のところまで行く。 「また来ました」と語りかけて絵の前に跪くたび、たった1枚が、自分にとってかけがえのないものになっていく。 その不便さが、永遠の片思いみたいで、切なくていいのだよなあ。 などと思いながら、不便な電車に乗って家路につく。 恋は不便なくらいが、ちょうどいい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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