喧騒の日々が終わりを告げる。
きのうは少し動けて疲れたので、余計な事(ノーベル文学賞とか)は考えずによく眠れた。今朝、妙な夢(実家の上にマンションが建っている=実家の周囲を鉄骨で補強して家をそのままに集合住宅が建っているのだ。将来的に実家も改装するらしいのだが・・・)を見て、目が覚めたが、別にどうってことはない気がした。朝起きて新聞を取りに行くと、1面は普通の記事。少しほっとした、見たくない顔、聞きたくない話を読まされないで済むからだ。私にはどうしても読めない作家が数人いる。その中の3大作家が、三島由紀夫、島尾敏雄、村上春樹なのである。三島由紀夫の文章を読もうとすると、めまいがする。なぜだかわからないが、自分とは異質過ぎる魂に、脳が拒否反応を示すのだろうか。だから、我が家には夫が買った文庫本がたくさんあるのに、1作も読んでいないのだ。島尾敏雄は『死の棘』で挫折した。ソクーロフの作品(島尾ミホさん出演)について知るために、読みたかったのだが。。。理由は、若い頃、男性たちに煮え湯を飲まされ続けた経験からだろう。責任の半分は私にあるにせよ。そして、村上春樹は、ニフティで知り合った当時現役の東大生2人が口々に面白いというので、文庫になっていた短編を読んだら、気分が悪くなった。「納屋を焼く」という作品だったと思う。その頃の私はまだアラサーで、精神的にも過敏だったのかもしれない。いま文庫本を取り出してざっと読んでみたら、よくも悪くも無いただの秀作だった。でも、東大生の一人が、ノルウェーの森に出てくる登場人物に私が似ているというから、新作が出る度に書店で手に取ってみたりしてみたけれど、何度字面を眺めても、私の好奇心に火が付くことは無かった。そして、バルガス・リョサの名は、南米文学の棚でよくかけていたけれど、ガルシア・マルケスさえ読んでいない私は、機会が巡ってくるまで放っておくことだろう。だっていま私は、アジアに囚われているのだから。(だいたい、クロード・シモンの「フランドルへの道」が我が家にあるのだって、ノーベル賞を受賞した時に買ったからだと夫が言っていた。私は何も知らずに図書館で借りて読んでいたが。)夫は、卒論にサリンジャーを選んだような人だから(当然、村上春樹は嫌い)、毎年この時期になると、ノーベル文学賞候補に取り沙汰される記事を見せられて、ぶつぶつと文句を言う。どんなにメディアリテラシーを学んだところで、メディアの側にリテラシーが育たなければ、良質な情報など望めないのだ。最近の日本の新聞のネット版を見ると、韓国の新聞の日本語版より韓流の話題が大きく扱われている。それもゴシップばかり。日本人、アタマワルクナルヨ。尖閣諸島の問題がこじれてからは、韓国は自国の利益だけに集中して、日本なんて国は経済的に植民地化できるかのように思っているようだ。それもまた面白いよね。