★アッシー君★(死語)
☆今、お迎えアッシーで羽田空港に来ています。この空港は、まだ国際線だった少年時代によく徒歩で遊びに来ていました。羽田は小学校2年生だけの短い期間でしたが、ワタシにはとても思い入れの深い土地でした。当時、親類をたらい回しにされ、転校の繰り返しだったワタシは、学校にも馴染めず、毎日街を徘徊していました。空港と大師橋の間の多摩川沿いには当時、貧困な外国人集落が密集し、アサリや海苔を採って生計を起てていたようです。学校へ行っていなかったワタシは友達と呼べる同級生がいなかったため、よくその集落へ遊びに行き、そこの子供達と鉄クズや銅線などを拾って遊び(仕事?)ました。そして、よく多摩川産の干物を食べさせてもらい、爺さん婆さんから『学校に行けヨ』と説教をされたものです。まだ外国人や部落に対して激しい差別行為があったあの時代。保護者親類の罵倒には、子供のワタシでも、その不快感は忘れません。ワタシの少年期に大きな影響を与えた、羽田の外国人部落………大人になってから、一度訪れたことがありますが、もう面影のカケラすらなく、新しい住宅が建ち並んでいました。あのバラック住まいの、激貧でも笑顔が絶えなかったあの人達は何処へ行って、いや、追いやられてしまったのでしょうか………今、当時の事を振り返るとまるで夢の中のことだったような気がします。