天保の改革。『遠山の金さん』が左遷される
天保14年(1843年)2月24日、江戸北町奉行・遠山景元が南町奉行・鳥居忠耀(とりい・ただてる)の策略により、閑職の大目付(おおめつけ)に『左遷』されました。これは、江戸幕府内部における、『天保の改革』の進め方をめぐる権力闘争によるものでした。遠山は、映画、テレビの時代劇で大岡越前守忠相とともに人気のある『遠山の金さん』のモデルです。青年期は複雑な家庭環境から家を出て、町屋で放蕩生活を送りますが、後に屋敷へ戻り、遠山家の家督を相続しました。その後は勘定奉行、江戸北町奉行に就任しました。老中・水野忠邦が主導する天保の改革では、強硬派の南町奉行・鳥居忠耀と対立を深めていきます。水野忠邦が鳥居忠耀の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとしました。しかし、遠山はこれに反対して、浅草猿若町への小屋移転だけにとどめさせました。この遠山の動きに感謝した芝居関係者が遠山を賞賛する意味で『遠山の金さん』ものを上演したのです。『遠山の金さん』は『大岡政談』と同様にフィクションです。映画、テレビでは、遠山奉行が御白洲(おしらす)で、もろ肌脱ぎになって『桜吹雪』を『悪人』に見せる場面がありますが、あれは全くの創作です。青年期の放蕩時代に彫り物を入れていたといわれていますが、それがどのようなものであったかは明確ではありません。遠山は、江戸町民に犠牲と耐乏を強いるだけの改革を可能なかぎり緩めようとしたといわれています。改革の強硬派である水野、鳥居との対立が遠山イコール正義、鳥居イコール悪役を作り上げたといえるでしょう。『大岡政談』と同様に、政治家にもとめる理想像が結集されたものであるかも知れません。さて、我らが金さんは、北町奉行を罷免された2年後、南町奉行として江戸市政の第一線に復帰しました。同一人物が南北両方の町奉行を務めたのは、極めて異例です。その後、水野忠邦の後を受けて政権の地位に座った阿部正弘からも重用されました。嘉永5年(1852年)に隠居すると、剃髪して帰雲と号し、安政2年(1855年)2月、61歳で死去しました。