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テーマ:最近観た映画。(39926)
カテゴリ:映画・演劇
この前の日曜、映画「おくりびと」を観に行きました。
主演は、僕と同年代のモックンこと本木雅弘、妻役は広末涼子。 まず、「歳の差カップル」に見えないところがすごい。 もっとも、本木がちょうど「まわしスタイル」に近いシーンがあるのですが、 さすがに「シコふんじゃった」の頃のような身体ではありません。 といってももちろん「メタボ」でもないし、かといって「いやぁ、鍛えてるで!!」式でもない、 まあ、身体も演技・演出のウチ、というくらいのバランスではあります。 それはともかく、、(以下、ネタバレあります。意表をつくストーリーではないものの。) この映画、人が「死体」になったとき(必ず一人一回)に、 湯灌を行い(身体を清拭し、髭をそり、死に化粧をして)、死に装束に着せ替えて、お棺に納める、という「納棺師」を描いたものです。 その分、「納棺の儀」という形で、親族が揃った状態で、親族の前で行う、ということになる、とうのが前提です。 映画の中でも語られていますが、納棺は以前は、身内がやったりしていたのが、最近は、いわゆる「葬儀屋さん」の下請けとして、納棺のみ行う(死体に直接触れる)専門職の仕事になってきているそうです。 (主人公が「就職」する先の納棺会社(社長一人、事務員さん一人)も、社長がご自分の奥さんを亡くし、その死に化粧をして以来「8年前から」やってる、、という設定になっています。) 僕も親族やまたごく親しい人を亡くしましたが、今までは、納棺の儀をおこなったことはなかったです。 この映画、まず、映画としてよく出来ています。テレビドラマと比べれば当たり前とはいうものの演出がちゃんとしていて、小道具や服装から表情までにアナが無いです。 また脚本もしっかりしていて、「メッセージ性」をオモテに出さず、むしろ基調はユーモラスでコミカルな雰囲気を保っていて、相当深刻で、絶望的な場面でも、一種の「軽み」をたたえながら、各人物が「記号」にならず、少ししか登場しない人物でも、その人の思いが「背景と必然性」が感じられるように描かれています。 で、中身なのですが、 主人公は、優しくて、でも、人を信じきって自分を全部預けて甘える、ということはできない性格、失踪した父親の影響で、チェロをやっていて、やっとプロオケに入ったもののすぐオケが解散して、失業して故郷に帰ってきた、、、という設定です。 映画の冒頭が、二人で車に乗っている場面で、主人公の内面の独白から、、、 というと「西の魔女が死んだ」と形式は同じなのですが、そのあと、 まずは、いきなり「納棺の儀」を主人公が執り行うところから、、、 回想はそのあとに続きます。 いきなり「第九」、主人公は、突然、チェロを弾いてます。 かなりプレストの箇所、音そのものは出してないのでしょうが、 周りとボーイングや指の位置はほぼ完全に合ってます。 (強いていえば、ビブラートがやや違う、、くらいかな。 それもモックンと判ってみてるからで、それくらいのバラつきは実際にもありそう。) 相当練習したのだろうなあ、、と思います。 このあともチェロは、主人公と父親との絆として、ずっと関係はしていくものの、 オケが解散して、チェロも売り払い(ちょっと設定に比してムリのある超高額楽器)、 きっぱり音楽家の道を諦めて(これも本当なら不自然ですが、諦めることで自分を治める、、性格、、である、、という伏線というかキャラクター設定なので)、 故郷へ帰って、ひょんなことから、納棺師、、という筋書きです。 死体を直視し、直接触れる、という職業、 当然、本人も抵抗感がありますし、周りには言えない、、、 最愛の妻にも言えない(高額のチェロを買ったときも言えなかった、、という伏線があり)、 でも少しずつ「街のウワサ」になる、 幼馴染も、妻も「恥ずかしい仕事」「フツーでない仕事」という見方が揺るぎ無い、、 という状況です。 まず、 「誰でも必ず死ぬ」のに、そして、誰でも、「その作業」をしないといけない、、、のに、 「その作業」をする仕事は、「自分や自分の身内がヤルなんてありえない」という感覚であること、、、実際、自分自身に置き換えて、概念でなく、実際に一緒に暮らす身内が、そしてたとえばセックスもする身内の相手が、 「ああ、この手で、今日も死体をさわってきたんだな」と思い続けることは、 そんなにカンタンに乗り越えられる壁ではないと思います。 主人公の「初現場」は、たまたま、腐乱死体、、、で、リアルな現実のうちの、生理的な嫌悪の面をまずは提示しています。(映画では直接写すことはしていませんが) そのあとは、映画進行上、一応「きれいな死体」ばかりの場面で、 焦点は、生者が、「死」と向き合う最初の玄関口の場面を、 つまりは、本人と周りが「どう生きてきたか」そして「死をどう受け入れるか」ということが 剥き出しで現れやすい場面として、いくつかの場面を示していきます(かなりオモロく、、描いています)。 そのなかで、そうした「向き合う」ことの手助け、本人に対しては「締めくくり」の手助け、周りに対しては「受け入れて、別れる」手助け、を行う、というプロとしての意欲と価値観に気づいていく様子が描かれています。 映像的には、モックンの「スタイリッシュ」な動きや演技の特徴が、この「儀式」を映像化するにあたり、最大限、説得力を持って生かされているように思います。 まあ、「一般に差別されがちな職業に焦点をあてた問題作」というようなアプローチではなく、 ひとつには、確かに、死・死体そしてそれを「扱う」という必然を直視する、、ということの斬新さと、確かさを感じたのですが、、、 (その頂点のセリフは、最愛の妻から「触らないで、汚らわしい(穢らわしい)」といわれる場面でしょう。) それも含めて、強く感じたのは、 コメディ映画とさえいえるほどに楽しく描きながら、、ではあるのですが、 職業の貴賎感、、です。 「フツーの職業をやって」と再三、ごく普通に、常識的に屈託もなく妻に頼まれる、、 という場面や、 無免許(?)バイクの暴走二人乗りで、グレたあげく死んでしまった娘の納棺のときに、 その娘を死なせた張本人のヤンキー達が、キレた母親に逆ギレするのを、 居合わせた学校の先生がヤンキー達に「おまえら、どうやって償う!!?? あのお兄さんみたいな仕事して一生償うか!???」と、非常に正しく道徳的に厳しく諌めると、 気志團並みの格好(←検索で来た人ゴメンなさい)をしたヤンキー達が非常に落胆してうなだれる、、、という場面、、 本当に、心がカンナで削られるかのような思いでした。 ごく普通に、「あっち」と「こっち」のセンを引いてること、、、 いろんな場面で確かにあります。 職業に限っても、たとえば、 よく職場でも、クビにならない程度の不祥事を起こした人間が、 ある部署に「異動」になったときに、 ワケ知り顔のオジサンが「あいつ、飛ばされおった」って言うことが多いのですが、 じゃあ、 フツーにその「不祥事起こしたから”飛ばされた”先」の職場で、 毎日勤務している人のことは、どう思ってるのか、、、と。 「同じ職場」の中ですら、実際には、「貴賎」があって、 「自分は、”アイツら”とは違う」と思いながら、 「上みて暮らすな、下みて暮らせ」式の図式がある、、ワケです。 (そのオジサンは、自分では、無頼で、サバケた仕事師を自認しているようですが。。。 まあ、そのオジサンに限らず。) 人に対する敬意、人の行為に対する敬意、人の存在に対する敬意、 として、 最低限のもの、、はやはり、ベースにしておくべきことだと思います。 そして、それは、この映画のシチュエーションが示すとおり、 実際問題確かに難しいことは多いですし、そうしきれないことも多いと思います。 だからこそ、 「そうなりがち」な自分や「ひと」というものを意識して、 「できるだけ」でも「修正」「補正」していく必要がある、、、 それくらい、 「フツー」は、センを引いてしまっていることが多い、、のだ、、、 ということを気づかされる映画でもありました。 世間的には、かなり「極端な例」(なるほどと強く思うものの)ですが、 それほど極端な例でなくとも、同じことがいたるところで日常ある、、、ということをも 感じさせてくれる映画でした。(作者がそこまで意図したかどうかはともかく) ムリなメッセージ性を出すでもなく、密度の濃い、楽しい、映画だったと思います。 (個人的好みをいえば、久石譲の音楽は、美しいものの、オモテに出てきて饒舌にすぎる(といっても、ほぼ同じ音楽)という気はします。ちょっとだけナルシス入ってるような、、映画には合ってるのは合ってますし、大半の人はむしろ感動しはるでしょうから、完全に僕の個人的好み、、、からの印象ですが。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.09.24 02:00:23
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