許すは神の御心なり
僕は自分でいうのもなんですが、「寛容な人間」な方だ、と思ってます。いわゆるイイヒトらしい…滅多なことでは激昂しませんし、人からネタにされたりいじられたりしても笑って流せますし、それによって異性からもてたりもてなかったりすることもありますし、扱いやすい人間だと思われていることも知ってますし、社会には人によって様々な意見があることも重々承知しているつもりです。(それが傲慢なのだと言われればそれで終わりですが)ただ、一つだけどうしても受け付けないなのが、自分の正しさを絶対に疑わない、或いは自分の意見に傲慢な人大抵のひとは、少々受け付けられないかな~と思っていても、時間がたてば、話をすればいろいろな面が垣間見れて、心地よい面を持った人だ、ぐらいにはなれるのですが、どうしてもこのタイプの人だけはダメです。自己中とか、イタイ人とか、そういうのはまだ全然大丈夫です。例えばこちらの会話の中でしか出てこない人のことを、その人にとって許容し得ない事実があったからと言って、「その人はダメだ、わかってない」などと言われるのはもう信じられません。貴方は確かに人を判断する独自の基準を持っているのかもしれないが、そしてそれが客観的な基準なのかもしれないが、それを見たこともない人に当てはめるだけの自信がどこにあるのか。あなたの知らないその人の他の側面も知っていないのに、なおかつその人のことを知っている私の目の前でよくもそんなことを言える、と。こちらの気持ちを考えられんのか、と。確かに断言されると力のある言葉であると思えますが、僕はどうしてもそれを認められません。僕はなんかよく言う「辛口コメンテーター」みたいなのが嫌いです。テレビ局の要請を満たした、視聴者の要請を満たしたキャラクターだ、というのはわかりますが、テレビという公共のメディアで、個人の事件をそのほかの面も切り捨てて、よくもまあそんなにいけしゃあしゃあと言えるものよ、と。彼らがその責任を負ってその職業を生業としているのなら、少しは見直せるのですが。甘い人間でしょうか。自分の観点に客観的なものがあると強く信じ、そのことを敢然と口から吐き出せる人間は確かに強い人たちでしょう。しかし、やはり僕は未だ謙虚にならざるを得ません。そんな無責任なことはできません。正しいことなんて、今の自分には到底把握しきれない。でも、個人的な考えを持つ、と言うのは非常に重要で、それがなければ社会の一員であることを放棄しているのでは、と思える。が逆に、それを絶対唯一のものとして、知らない人をけなしたり、対立意見を追い落とすようなことはどうにも…議論、というものに慣れていない・よく知らない自分ではあるけれど、意見を押し付けるのが建設的になるとは、どうしても思えんのです。今日はグチでした。