【読書】考えるヒント2/小林秀雄 (その2)
言葉に惑わされるという私達の性向は、殆ど信じられないほど深いものである。私達は皆、物と物の名とを混同しながら育ってきたのだ。物の名を呼べば、忽ち物は姿を現すと信ずる子供の心は、そのまま怠惰な大人の心でもある。僕達は効率やスピードという名の下に、どれだけ多くの、現実から乖離した、脳みその表面わずか1mmのあたりで考え付いたような空疎な言葉を普段から交わしているのでしょう。もちろん僕達は学者ではないので、中身の有無に関係なく効果があるのであれば良しとする、という考え方もあるでしょうが。そういう意味では、物を作るという仕事が僕が好きな理由は、何があっても、最終的に出来あがったものが目に見える形になって、さらに、なんと言い訳をしようとも、システムからの警告として、あるいや利用者からの反応として、判然とした結果があらわれるからです。--------------------------今日は、竹橋に東山魁夷展(最終日でした)を観に行った後、久しぶりに実家で夕食を食べてきました。東山画伯については、いまさら述べるまでもないと思いますが、僕にとっては、東山魁夷も辻邦生も小林秀雄も、分野が違えども、それぞれ高い品性があって研ぎ澄まされた精神を感じるところが、好きになったポイントなのでしょう。ちょうど正午ちょっと前に入ったせいかそれほど館内も混雑しておらずゆっくり鑑賞できてよかったです。しかし、家で食べる食事はなぜあんなにおいしいのでしょうかね。