松本道弘ブログ 元祖ナニワ英語道
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(6/6のつづき)今私は修験道を意識している。――修験者が登りつめたる焼火山 これぞ誠の常若(とこわか)の道いかに70歳といえども、私はまだ若いのだというつっぱりもある。降りてすぐに別府港に近い黒木御所(後醍醐天皇の)を訪れた。その受付けの人は、なんと焼火神社の松浦道仁宮司(48)であった。教育論や天皇論で花が咲いた。次の宿泊先は、同じく島前の中之島。菱浦港に着く。ここはまるで別世界。(つづく)
2010年06月07日
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(6/5のつづき)「隠岐の海」が4連敗。気の毒だ、もう見たくないと島の人はいう。しかしみんなが心を痛めながら見続けているのだ。翌朝、焼火山(たくひやま)を登った。足が棒になるまで登りつめたところに焼火神社がある。宮崎駿が喜びそうな風景。境内には猫一匹いなかった。社務所にもだれもいない。マムシにも会わなかった。竹の杖も必要はなかった。まるで私がこの山を独り占めしているような気になった。(つづく)
2010年06月06日
(6/3のつづき)西之島町は、美しい島だった。息を呑むような絶景(a breath-takingly beautiful island)、国賀海岸からは日御崎や大山が見えた。タクシーの運転手は、うーむ、こんな絶好の日和はなかった、と何度も唸っていた。多雨の出雲へは何度も来ているが、これまで一度も雨に降られたことはない。運転手がボソッという。「島の人は、いいことをしても当り前、悪いことをしたら許されません」と。人間力を鍛えるのは、やはり島か。弁護士も警察もいらない。周囲の村人たちの眼が光っているだけだ。村から町へ、市へ発展するにつれ、犯罪が増える。ただ、村人はライバルに負けまいという気迫に乏しいのでは。(つづく)
2010年06月05日
(6/2のつづき)――八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくるその八重垣を――スサノオのこの歌が日本最初の和歌とされている。ここから出雲という名称が生まれた。 翌日私も一句浮んだ。――八重垣の沖に隠れし隠岐の鬼 ミカド救うは鬼の鬼なり――この鬼はサムライのつもりで書いた。鬼はdevil(邪気)ではない。天皇にも憑依する。建武の中興の士、後醍醐天皇も一種の鬼ではないか。弥生人に追われた縄文人、そして表の天皇の守る裏の武士(サムライ)--これらは全て鬼である。大楠公に魅せられた横井小楠は、自らの名前を小楠とした。これも多感なサムライ。そして末席を穢すようだが、私も英語の鬼、いや英語の天狗か。今、護国の鬼にならんとしている。(つづく)
2010年06月03日
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(6/1のつづき)そこで我々は向かい、叶い石に清めの願をかけることにした。神社で拝むときは、願いごとをせず、ただ感謝するのみだと自らに誓っていたが、今回は違う。平成武士道(仮題)を現実のものにしたい(編集会議をクリアして欲しい)という切実な願いがある。願い事を書いた。「出雲のご縁ネットワークにより平成武士道がブレークし、世界平和のため、一隅を照らせん(make a difference)ことを念ず」と。御神籤は末吉。多難が続きそうだ。(つづく)
2010年06月02日
(5/29のつづき)下山して和歌発祥の地である須賀宮へ向い参拝。行くところ、どこでも六角形の紋がある。それにしても、平成武士道の精神は、スサノオノミコトから--つまり神話から--始まると言い続けてきただけに不気味だ。初めて会った野津氏が私がまさに求めていた由縁の地へ導いてくれたのである。その参拝の途中に、講談社インターナショナルの倉持哲夫編集長からケータイ電話がかかる。編集会議が近づいている。武士道を英語で書きたいと申し出ている私の意向を伝えたいのだが、「英語の先生でしょう」という冷たい声もあり、説得に難航しておられるようだ。英語の達人ということで、どこか偏見がある。日本の文化など書けるはずがない、という先入観が。(つづく)
2010年06月01日
(5/28のつづき)縁結びの八咫ガラス(岩崎)が電話でいう。「先生に必要な人物が松江にいます。野津裕司というインターネットに強い男です」と。会う前から、何か波動を感じている。見えざるエネルギーがすでに躍動している。夕方初めて会った。一人の部下と私を面白いところへドライブで案内したいという。どうせ、計画なく動く気儘な旅ガラス、身を任せることにした。御室山の中腹の夫婦岩に向って登っていく。汗が出た。スサノオノミコトと女房のクシナダヒメ、そしてその子供の三つの巨岩。この盤座(いわくら)は古代における須我神社の祭祀の地であったという。(つづく)
2010年05月29日
(5/27のつづき)1985年(私はこの年を奇蹟の年と定義している)に、私の人生を変えた奇蹟が次々と起こった。今回も、奇蹟を起こしたいという気持で、出雲空港からバスで松江のホテル一畑へ向う。今回は連れのいない独り旅なので、目撃者がおらず、大した奇蹟は期待できないかもしれない。いや実はすでに起こっていた。羽田の電子版では、出雲だけは、傘の絵が泣いている。「雨?まさかこの晴れ男(琉球紘道館の比嘉塾頭が私をそう呼ぶ)が訪れるというのに。空港へ着いた頃には、雨は止んでいた。(つづく)
2010年05月28日
「国際ディベート大学」という私塾大学構想が生まれたのは、大学の在り方に疑問を感じた最近になってからのことだが、実はかなり前から私の脳幹の奥に眠っていたユートピア構想である。そのヴィジョンを私の日記にイラストで描いてみた。実験大学は首都圏近く――できれば富士山あるいは桜島の見えるところだと考えていたが、その場所探しが今まで続いている。その間読んだ、『タカモリ』(勇知之著)にも、『君子の道――横井小楠』にも影響を受け、皇道を再認識し始めていた。武士道はここまで調べないと書けないのだから、一度は憧れの隠岐島に渡ってみたいのだ。私の脳幹――いや内なる神か――の誘いだ。JTBの窓口で、「できれば出雲経由で...船旅が好きなので」といった。松江で一泊したかったからだ。(つづく)
2010年05月27日
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(5/25のつづき)この秋(9月12日)、初めて秋田でICEE祭り(佐藤直人・元ICEEチャンピオンが主催)を開く。紘道館ネットワークは、海の縄文ネットワークなのだ。一言で九州人をまとめると、「情理」で動く人たちであるといえる。このクニの人たちは、「情」で動く、ロジックだけでは動かない。教育革命は「火」から始まる。師がみずから燃えれば、弟はおのずから燃える。一匹狼の南徹とはそういう夢多き烈士だ。70歳になっても、私は矩(ノリ)を越すことを恐れず、燃え続ける。
2010年05月26日
(5/24のつづき)宮崎県はやはり「水」であった。ホッとする。癒される。宮崎国際大学を半日見学。臨時授業。AIUよりもはるかに古いのに、いまだにPRをする気もない。この大学には、独裁者はいない。学長と副学長(イギリス人のマイケル)と夕食をしたが、どちらも「空」や「水」のような存在だ。リーダーはいないのか。いやオーナーがいる。オーナーは、姿を見せない。この国には人はいない。神がいた。神楽(かぐら)があった。秋田のナマハゲを思い出し、懐かしく感じたやはり私は縄文人なのか。(つづく)
2010年05月25日
(5/21のつづき)一週間の九州行脚は楽しかった。大分県は石。福岡県は風(北九州はまだ火種がありくすぶっているが)。熊本県は火。横井小楠を映画化すれば、熊本も、もっと風通しがよくなるだろう。女も火。荒瀬ダムをぶっこわそうと言い出したのも女(前知事)だった。鹿児島は、火というよりも「空」だ。ゼロだ。空(クウ)だからすぐに火にも変わる。色即是空。教育道の確立を急いでいる、私が鹿児島に期待するのは、「空」から生じるグローバル感覚である。(つづく)
2010年05月24日
(5/20のつづき)菊池寛の「恩讐の彼方に」(最近は九州の学校でも勧めているらしい)を予め読ませてから、ディベートをさせる。国語力の強化につながる。国語の先生方が率先してディベートをするべきであろう。師弟共、究論能力が高まる。実学は思考を活性化させる。早期英語教育は、この頃から始めた方がよい。郷中教育も稚児(ちご)から始まる。6,7歳から14,15歳まで。15,16歳からは二才(にせ)。とにかく思考のよろこびを体験させる。私塾(寺子屋教室)の時代が訪れた。(つづく)
2010年05月21日
(5/19のつづき)南徹氏は、とにかく、頭の回転が速い。「福岡の寺子屋モデルでは、青の洞門をサッカー・ディベートさせ、大成功した」という話をしたら、鹿児島でもそのテーマでやらせたい、と。ノリがよい。行動力がある。南氏は、西郷隆盛と竜馬を足して二で割ったような人物だ。カリキュラムでしばられた大学教育ではこんな価値論題はとりあげられない。私塾に関心のある人に勧めたい。こんなテーマでやってみたらどうだろう。「実之助はトンネル貫通後、親の仇の禅海を討つべきか」。(つづく)
2010年05月20日
(5/18のつづき)鹿児島のボッケモンは空だ。鹿児島はこのまま「空」になってほしい。20歳以下の学生(女性が多かった)に朱子学や陽明学の話はちょっと難解だったかもしれない。南氏は「大丈夫。ここは寺子屋。そんな話でついてくる。まずビールを飲んでから話されては」と言う。スケールがでかい。だから私もリラックスして話を落した。影を動かすために...。「私が尊敬する横井小楠(熊本)は、酒で失敗した。私は酒では崩れない。女で崩れることがあっても。しかし、私を崩すような女はこの世にいない。だから崩れることはまずない。」これがバカウケした。なぜ若者たちにこんなにウケたのだろうか。とにかく、南徹学院長以下、事務員、そして学生達のすべてが明るいのだ。こんな南端の寺小屋教育が、郷中教育の詮議ディベートを復活させてくれれば、日本の教育も変わるだろう。ぜひ鹿児島紘道館の塾頭を併任していただきたいものだ。(つづく)
2010年05月19日
(5/17のつづき)私はよほどcrazyなダメ人間なのだろう。よく社会のルールを破る。だから、酒で失敗したあの革命の天才・横井小楠が身近に感じるのだ。鹿児島の寺子屋IBS外語学院(南徹学院長)で数十名の生徒の前で語った。鹿児島は火だと思っていたが、火力では熊本にかなわない。肥後の引き倒しというジェラシーも火のようだ。死に魅せられた三島由紀夫が心酔した神風連の若者たち。若くして散ってしまった。青(鬼)火が今も燃え続けている。まさに青く燃える鬼火だ。熊本のモッコス気質は火だ。(つづく)
2010年05月18日
(5/15のつづき)しかし、もう戻れない。すでに矩(のり)を越えてしまった。I've already crossed the line. 孔子と較べれば、私はダメ人間なのだ。最近の日記に書き記した。 吾れ十有五にして、学に志すことができず、三十にして、立つことができず、四十にして、惑い続け、五十にして、自らに逆らい、七十にして、心の欲するところに従って、矩(のり)をこえようとしている。これを見て、高森桃太郎(大阪紘道館塾頭)がゲラゲラ笑いだした。「先生らしい」と。(つづく)
2010年05月17日
(5/14のつづき)時に私は夢を見る。あの桃源郷であった秋田の大学校舎の夢を――いやそこで教えた生徒たちの夢を。韓国の李女史は、ストレートでホットな女性だった。ある教授からMr. Matsumoto is crazy. といわれ、顔を真っ赤にして反論した。He's not crazy. と。キムチのようにホットなところがある。そして水のように優しいところがある。「一緒に韓国へ行きましょう」と。とにかく「いや二人じゃまずいな。小松先生と一緒に」と笑いで返す私。最初の授業からスズムシを持ち込む教授はたしかにクレージーだ。朱子学的な大学では、教授たちから「狂人」「変人」に映ったのだろう。たちまち私は浮き上がった。しかし、彼女は私を最後まで守ってくれた。まるで九州の女性のようにストレートだ。「先生、学校へ戻って下さい」と。こんな私でも引き止めてくれる生徒がいるのか...。(つづく)
2010年05月15日
(5/13のつづき)なぜ石のような孔子、そして朱子学に反発したのか。このDVD「孔子」でわかった。悲運の孔子は、横井小楠のように、泣き虫であった。感情の起伏の激しい人は、よく泣く。そしてよく笑う。笑いは攻撃だ。マルコムXやバラク・オバマや竜馬が惚れた横井小楠もそういうタイプのサムライdreamersだ。愛を奪われた人間は、夢に身を任すから青く燃える。小倉の松本清張記念館はもう一度足を運んでみたい。あの青く燃えた男に会いに。青の洞門(菊池寛が小説「恩讐の彼方に」にした)の禅海のように。小人は赤く短く燃え、君子は青く長く燃える。(つづく)
2010年05月14日
(5/12のつづき)中国で買った「孔子」(一年間続いた連続テレビシリーズ)をDVDで観た。一週間かかった。全巻英語の字幕で観た。感動した。次は、中国語の字幕で観たい。なぜ感動したのか。私のナニワ時代を思い出したからだ。私には忠実な部下が二人いた。「英語道を始めて下さい。きっと英語教育が変わりますよ」と言って引き下がらなかった平野清(A)。そしていつも側にいた角(O)。その角富雄君が古希の祝いの儀式に参加してくれた。「当時の先生は孔子のようでした」とボソリといわれたこともあった。5、6人の弟子たちと、笑い、泣いた。それが辛くて、もう弟子はもたないといって、老子に化身して、山ごもりした(アポロ時代)。(つづく) 紘道館の例会報告を更新しましたこちら
2010年05月13日
(5/11のつづき)そんな手塚の前に熟成した横井福次郎という天才が立った。「こんな子供だましのマンガなんか」と。手塚の面子はつぶされた。手塚は泣いた。ひとりぼっちで夜道を歩き続けた。そして大人のマンガに挑んだ。「ブラック・ジャック」はこのようにして生まれた。そんな手塚に私は今でも――いや今だからこそ――嫉妬を覚えてしまうのだ。今でも徹夜でDVDから、次の本に使えるひと息英語がないかなと、耳を働かせながら、メモをとっている。1秒英語は、手塚のスケッチと同じだ。かつてマンガ家に憧れた私は、今や英語をスケッチし始めている。ブログで私の絵日記が公開されるのだから、手塚治虫だって、あの世で私をやっかんでいるかもしれない。「英語さえできれば、ウォルト・ディズニーとコラボができたのに」と。(つづく)
2010年05月12日
(5/10のつづき)「先生、手塚治虫も嫉妬深かったんですよ、先生に似て」。先生に似て、というのは余計だが、そう言ったのは紘道館の恩田女史(イラストレーター)だ。多分石ノ森章太郎だと思うが、天才でも嫉妬する相手がいるものだ。いや天才は好奇心が旺盛で、本質的に嫉妬深い(professional jealousy)なのだ。相手は、宮崎駿かなと思っていたが、水木しげる、さいとうたかお等、若手のホープはすべて視界に入っていた。手塚はアニメに燃えた。ようしオレも、と青く燃えた。映画館の中でアンパンをかじりながら、映画「バンビ」を朝から晩まで観た。80回も「バンビ」を観ながらスケッチをした。負けず嫌いだった。若くして天才といわれた手塚は努力家だった。(つづく)
2010年05月11日
(5/8のつづき)AIUの中嶋嶺雄学長に対しても、面前で「B型でしょう」といって、命中させた。Bは面子というより、意地を張る。Oと違ってストレートなロジックは通用しない。じっくり考えると、95%以上、的中する。「やっぱり」(I knew it.)というのはアマチュア。プロはリスクをとる。外れても恥をかいても逃げない。失敗から学ぶ。リスクを避け、「やっぱり」と言葉を濁して逃げる人は、いつまでたってもプロになれない。プロはリスクを恐れずどこまでもやる、続ける。手塚治虫のように、ほとんど寝ずにスタジオで仕事をするマンガの天才。「5分経ったら起こしてくれ」と、机の前に目覚まし時計を置かせて仮眠。平田氏がその役。目撃者だから説得力がある。プロとはそんなものですよ、と平田氏はいう。(つづく)
2010年05月10日
(5/7のつづき)「手塚治虫に弟子入りしたかったのでしょう、先生。紹介したい人がいます」とヤタガラスがいう。平田昭吾は日本で一番売れっ子(一番の稼ぎ手かな)のアニメライター。生前手塚治虫が一番気に入っていた参謀だった。最高給(当時で月350万円。常人の十倍というから破格)で、豪気で金の使い方も派手なギャンブラー。手塚に可愛がられた忠実な部下。長いつきあいを好む、猪突猛進タイプ。このシャーロック・ホームズはご本人に会う前から演繹推理を働かせている。狙ったら最後、じっくり考える。手塚はA型だったな。AとOはケンカしながらも長続きする(私と浜岡、私と中谷もAとO)。新宿で会ったとき、「先生はO型ですね」といえば、「そうです」と答えられた。又当ってしまった。(つづく)
2010年05月08日
(5/6のつづき)泣きなさい、笑いなさい。琉球紘道館でやった「泣き笑い」ディベート(ネイティヴも積極参加)には花が咲いた。今、私は「音読」の必要性(國弘氏に遠慮してあまり喋らなかったが)について、書こうと思っている。音読は必要――よくわかっている――だとは口に出してなかなか言えなかった。遠慮か?これが「風姿花伝」の秘すれば花。ネイティヴに英訳させればflowering spirit。花は他の花を妬まない。ましてや枯れはじめた花は。時分の花を咲かせたい。(つづく)
2010年05月07日
(5/5のつづき)紘道館はもう30年以上も続いた。散っても咲いても、続く--私の日記のように。4月5日、80歳を越えた國弘正雄氏にお会いした。枯れておられる。老子を見た。「もう英語なんか未練はない」といって憚らない。私もいつか訪れたい心境だ。こんな人と、「音読か黙読か」というテーマの対談企画(塚本さん担当)が待っている。司会者は「たちばな」の笹さんしかいないだろう。「枯れる」は難訳語のひとつ。Mellow(熟している)としか表現できない。この老荘思想に戻られた國弘正雄翁は、戦後英語界の三大巨人のひとりといわれている(アエラ・イングリッシュ)。光栄だとも思っておられない。話題にもして欲しくないという心境だ。私もこの若さで、かなり枯れていると自負しているが、まだ脂ぎったところがある。枯れ木(國弘正雄)に花を咲かせてみせるのだとハッスルしている。(つづく)
2010年05月06日
(5/4のつづき)旅人ディベーターの私にとり、楽しみが1つある。この夏スズムシに再会できるのだ。懐かしい。あの霊妙な鳴声が。まだか。首を長くして待っているというのに。「まだか」じゃなく、「もうすでに初夏じゃないか」。紘道館の恒例の花(桜)見(紘道館ブログ参照)が終った。名物男の浜岡塾頭が散って、中谷敬新塾頭が咲いた。桜の下で飲み交わしながらの儀式だった。桜園三結義だ。浜岡は散らない、散らせない。秋のICEEのリーダーは続けてくれる。(つづく)
2010年05月05日
桜が散った。早く散る桜が美しいのは、命が短いからだといわれる。しかし、ここ奥飛騨の合掌苑(「音読で1秒英語」(仮題)執筆のため)の界隈(海抜525米)ではまだ桜が咲いている。日本全国を旅する旅人にとり桜はなかなか散らない花なのだ。グラスの水が半分減っているというのは事実。ファクトに対するオピニオンは違う。Half empty(半分空っぽ)だという人がいても、half full(半分も残っている)という人が必ずいる。どちらも1/2秒で言える。二人で1秒。そう人とは二人のこと。これがコミュニケーションの基本。英会話は3秒(ソニーの故井深氏)という説に挑み、1秒にまで縮めた。半分(しか)か、半分(も)とでは意見が正反対。ディベートは、所詮こんなに他愛ないものだ。(つづく)
2010年05月04日
(4/30のつづき)私が大きくなるとき、必ず何か大きな事件があった。中国語で危機管理(ウイシエクアンリー)の機(シエイ)はcrisisとopportunityの両義をもっている。ケネディ大統領が、この中国語の両義性に目をつけた。 Crisis is opportunity.(ピンチがチャンス)なのだ。私のブログは重い。だから、じっくり読んでいただきたい。ずいぶん旅費を初めコストがかかっているのだから。サムライは、たかがブログだからといって気を抜くことはない。
2010年05月03日
(4/29のつづき)面子――これは、決意の顕れである。面子とは、honesty(ウラオモテなくストレートなこと)と同じく、淋しいものだ。意地を通して、世間を狭くしてしまうことがあっても逃げられないのだから。その代わり、大学か私塾(中国、韓国では書院)か、という大きなテーマが産まれる。 中国で面子の研究をしようという気持になったのも、学内での面子バトルがきっかけとなったものである。私はこれをAIUの盧溝橋事件と呼ぶ。日中戦争のきっかけとなった事変である。中国へ、私塾紘道館を進出させようと思い立って、私の意地(面子)が膨張した。(つづく)
2010年04月30日
(4/28のつづき)ワリカンにも面子がつきまとう。ここは私のおごりにしていただけないと私の面子がたたない、は、不給我面子(プーゲイウオミエンツ)という。面子となれば、東洋は同じだ。私がAIUから離れることになったのも、面子の問題でもある。武士の面目は面子なのだ。 私の教育ビジネスは面子ビジネスなのだ、と吹聴することがある。「スミマセン。次からは気をつけます」と謝れば仕事を失うことはない。金を失っても金は戻ってくる--信用さえ失わなければ。人間関係で一度だってミソをつけたら、面子という信用を失うことになるから、引き下がれないことがある。(つづく)
2010年04月29日
(4/27のつづき)成田を発つときに、一冊手にしていた、お気に入りの本がある。「中国人の面子(メンツ)」(江河海。詳伝社)だ。二度離婚した中国人の告白から始まる。人の前で私を罵る女房に耐えられず、別れた。二度目の女房は、ベターッとオレにくっつき、オレから目を離さない。愛してくれるのはいいが、いつでもどこでも電話で居所をつきとめられたんじゃ、男友達の前でオレの面子が立たなくなる。だから、同じ理由で、娘を引きとって、別れた。今はせいせいしている。男の面子を立ててくれるような女としか一緒にいたくない」という。(つづく)
2010年04月28日
(4/26のつづき)中国にも、サッカー・ディベート(足球究論)を広めるつもりだ。究論とは、礼(孔子)+不要面子(老子)+実用主義のことだと私は講演のとき英語で語った。面子(ミエンズ)を加えたとき、どっと中国人学生が笑った。私のスピーチは、中国と米国の共通点にゲーム思想があると述べ、面子が違った形で衝突する(グーグル対米国政府)。そしてどちらかが∧から転落し、∨の日本が救うことになると大上段に構えた。しかし、中国人の面子を傷つけないよう発言には気をつけた。松本節は危険なので、問題発言はなかったか、と朱教授にいえば、「あそこまではよい」と答えられた。だれの面子もつぶさなかった。中国は面子の国。増満氏が教えてくれた中国語が役立った。給我一个面子(ゲイウオイーガミエンツ)を直訳すれば、Give me face。中国で学びたかったテーマの一つに「面子」があった。(つづく)
2010年04月27日
(4/24のつづき)孫文による中国革命は、日本人の朋友(ポンユウ)なくして成立はしなかった。日本の教育革命のために、私が中国を利用する番だ。これが、中国人とアメリカ人が共有するプラグマチズムの思考だ。「猫の色が黒か白かどうでもいい。ネズミさえ捕まえてくれれば」というのが実用主義だ。中国が好きか、嫌いか(嫌いな点は多い)というより、日本の教育革命(「教育道」の確立。英語道はその一歩)を起こすには、日本が恐れる中国を利用することではないか。日本人による日本人の革命はムリなような気がする。孫子を師と仰いだ王陽明の知恵が今の私には必要なのだ。孫子も老子の影響を受けたはずだ。闘いにも「道」が一番肝心と述べている。(つづく)
2010年04月26日
(4/23のつづき)彼が私に紹介してくれた、鹿児島県人のネットワークは、まるで中国人の関係(クアンシ)に匹敵する強力な幇(パン)のように思えた。三菱、住友系の現地企業の社長たちから、苦労話を伺った。無錫紘道館の影のサポーターが多くいることを知った。増満氏の隠徳の深さには畏れ入る。紘道館の塾頭として、申し分ない。この語学の天才増満氏(謎のヤタガラス・岩崎弘治の紹介)を中国のキーパーソンとして、王陽明ツアーを紘道館で企画してみたい。(つづく)
2010年04月24日
(4/22のつづき)しかし、質問をしたあの中国人学生のように、具体性となると、孔子に勝てない。中国文学と中国語と共に、もう一度やり直すのだ。同時通訳の西山千師匠は、60歳からフランス語を学びたいと述べられた。私は70歳から中国語に取り組むと誓った。トライリンガルの必要性に私を目覚めさせたのは、私の中国関係の参謀、増満工将氏である。中国語も英語もペラペラで、この国際色豊かな鹿児島県人は、中国滞在中の私のケアをしてくれた。無錫紘道館の初代塾頭となる。今年のマン・オブ・ザ・イヤーの候補の一人。(つづく)
2010年04月23日
(4/21のつづき)アポロが月へ着陸した頃の話だ。(この辺りは『同時通訳』角川学芸文庫)の中で軽く触れている。とにかく、英語道とか山籠りをするなどという数々の私の奇行の裏づけになったのが、老子の「道徳経」であった。北京の書店で買った老子の「道徳経」は、英語と中国語で書かれているので、むさぼるように読んだ。湯舟の中で読み、青春が戻ってきた。すべてを捨てたところ、大欲が戻ってきた。山奥で蚕に桑の葉を与えながら、海外へ行かずにNHKテレビの上級番組に出てみせるのだ、と自分に言い聞かせた。無欲は大欲に似たりか、老子様、ありがとう。(つづく)紘道館の例会報告を更新しましたこちら
2010年04月22日
(4/20のつづき)中国は共産国だ。あまり過激な発言をすれば、再入国ができなくなる。ここはタテ社会なのだ。朱子学のみが通じる社会なら、社会の「和」を乱した赤穂の47名のさむらいは、すべて反逆者でテロリストある。陽明学でいう「良知」の思想が、彼らを義士に変えた。武士の面目が立った。朱子学の李氏朝鮮の時代ではこんな結果にはならない。文武両道(王陽明)を愛でる日本という国柄が、武を美化したのだ。棲みなれた日商岩井を離れた私は、次の就職先を決める前に、喫茶店で中国の古典を読み漁った。とくに老子の「道徳経」が気に入った。アポロが月へ着陸した頃の話だ。(つづく) 紘道館の例会報告を更新しましたこちら
2010年04月21日
(4/19のつづき)孔子に投げた老子の「as you please」を中国語でどう訳せばいいのか、と会場の人たちに、質問を投げかけた。影を動かす、という武蔵の技を用いた。前席の5,6名の人(朱教授もおられた)が、異口同音にスーイと答えた。私の耳には、「粋」と聞こえた。私の中国語のリスニングは弱い。あとで確かめたが、随意をスーイと読むそうだ。「ご随意に」(As you see fit.)ということなのだ。この質問で、私の老子に対する思いの丈(たけ)が通じたと思った。しかし、あの一学生の質問で、軌道修正せざるを得なかった。意の丈だけではなく、身の丈を知らねばならない。いかに私の思いが老荘思想や陽明学に傾いても、場というものがある。(つづく)
2010年04月20日
(4/17のつづき)書院とは、「対話」を重視するところ。私が理想とする私塾の姿に近い。この反論らしき質問はなぜなされたのか。私は講演の中で、孔子と老子の出会いのエピソードを語った。弟子から、「先生、もうひとり老子という偉大な先生がおられます。一度お会いになっては」と言われて、初めて会った。孔子は、少し歳が若い老子に向って、「どこに座ればいいのかね」と尋ねた。ずっと沈黙をしていた老子は、「それは私が決めることではない、ご随意に」と述べたので、孔子はムッとされたらしい。「礼の知らぬやつ」と思ったのではないか。あとで弟子たちが「どんな人でしたか、老子という人は」と尋ねたとき、「......んーむ...竜のような人物だったな」と答えたというから、さすが孔子も人を見る眼がある。(つづく)
2010年04月19日
(4/16のつづき)ナチュラル・スピードでしゃべってもみんながついてくる。朱教授によると、私がときどき中国語を話し、漢字を使ったから、学生達もほとんど理解できていました、という。中国人学生の質問も活発で、核心をつくものだった。「先生は、今の中国人は老子の道徳経を読むことを勧めるかのような話をされましたが、老子は抽象的で、孫子の兵法や孔子のように具体例に乏しいのでは」という反論めいた質問には、ハッとさせられた。すぐに、陽明学が、朱子学よりベターだという印象を与えたのは、まずいと考え、どちらも大切で、その源流たる孔子の教えに思いを馳せる必要があると述べた。その日の朝、東林書院(朱子学中心。陽明学は中国では危険視されているので)を訪れたことがよかった。(つづく)
2010年04月17日
(4/15のつづき)今の大学生(ESS対象ではない)が英語ぶっ通しのレクチャーを聴講するとは思えない。50名は集まるだろうと、教授はいうが、どうせ中国人はオーバーだから、フタを開けてみたら、15~6名だろうとタカをくくっていた。当日、江南大学商学院の講堂に入った。驚いたことに、まるで満員御礼。多分350名は超えているだろう。立見席が多く、あとからあとから入ってくるが、入口のところが混雑している。400名以上はいたかもしれない。数に圧倒された。内容も「中国、米国、日本の比較分析」という高度なもので、英語の勉強の仕方といった次元の問題ではなく、あくまで内容の勝負だ。この日本の英語武蔵、相手にとり不足はない。(つづく)
2010年04月16日
(4/14のつづき)ふと、NHKの「英語でしゃべらナイト」というお笑い番組を思い出した。外国ではシリアスな英語番組が当たり前なのだ。私が日本人に広めたいtough Englishが学べる。民放化した今のNHKはsoft Englishしか教えることはできない。中国は違う。江南大学で私に英語講演を依頼したいという。ええ? 2時間近く、私の英語講演を聞きたいという大学生が本当にいるのか? 20年前、関西の大学生(ESSが中心だ)のグループを対象に、イングリッシュ・オンリーの講演をやったものだが、関東では日本語だけの講演がほとんどだった。日本人の英語発信能力は確実に落ちている。今は北京にいるが、すぐに上海から無錫へ移る。初めて中国の大学で英語オンリーの演説をぶつのか。うーん、身構えてしまう。(つづく)
2010年04月15日
(4/13のつづき)北京では朝から晩まで、テレビで中国語を聴いている。韓国の済州島でもナチュラル・スピードの英語番組があった。どちらの国も早期英語教育で、英語による発信力は日本人よりもはるかにすぐれている。とくにすごいのは、俗にいうクレージー・イングリッシュのフィーバーが、十年後も猛威を振るっているという事実。CCI(チャイナ・セントラル・インターナショナル)は、24時間英語による放映を続けている。とくに私が恐ろしいと思ったのは、アメリカ人講師が自然のスピードの英語で、自然のスピードの中国語を教えていることだ。(つづく)
2010年04月14日
(4/12のつづき)還暦の年に、すでにウケヒを済ませていたのだ。涙は滂沱として流れた。陽明学の狂いの美学に酔った。司馬遼太郎は墓地から「だから言っただろう。陽明学は度の強いアルコールだって」というだろう。数週間のち、やっと我に戻った。(やばい、英語とディベートを捨てたら、私は生活ができない)。あれから十年、古希を迎えた。あの頃の感激が甦った。そして十年後、中国を訪れる。北京では朝から晩まで、テレビで中国語を聴いている。ときおり入る英語はナチュラル・スピードだ。70歳で再び中国語に挑戦する。(つづく)
2010年04月13日
(4/10のつづき)今70歳で赤ん坊になった私。通常、還暦とは60歳のはずだ。急に10年前の当用日記を読みたくなった。この年、私は単身で陽明学の研究で、王陽明生誕の地、そして墓地を訪れている。王陽明の墓の前では、中国人のガイドは、席を外した。「先生はお独りでお話をなされたいでしょうから」と。私の眼の前に、明治維新の起爆剤となった英雄が眠っている。たった二人。私は墓前で独りで泣いた。そして、自分の心境を声を震わせあらわにした。「再び、中国と日本を戦争させないで下さい。そのためには、英語もディベートも捨てます」と。明治維新の裏に陽明学があった。その魂の炎をもういちど日本に、そして私自身に与えたまえ、と誓ったのだ。(つづく)
2010年04月12日
(4/9のつづき)サピオでは、中国が日本を買い回っている、という大特集をした。ますます日本はびびっている。新渡戸稲造が「武士道」を書いたころは、日露戦争での勝利の酔いが醒めやらぬ日本人をますます酔わせた。今は、日露戦争のことなど話題にもならない、醒めた日本人ばかり。そんなときに、平成武士道を書くというのは、どう考えても不利な立場にある。しかし、英文で平成武士道を書く(とりあえず断食中に英語で書いた素描は、紘道館ブログに載せる予定だ)と決意した。そこで仮想敵の内情を知りたくなる。王陽明の研究の前に北京へ飛ぶ。(つづく)
2010年04月10日
(4/8のつづき)「孫子の兵法」は、闘わずして勝つことをベストと考えるわけだから、日本は侵略される前に、精神的にも武装解除されてしまうのではないか。日本の武士道はどのように対処すればいいのか。国会中継(参院予算委)での普天間基地問題をめぐる感情的論争を耳にし、ますます日本の将来が不安になってくる。与党(民主党)がかつての与党であった自民党のリベンジ攻撃を受け、グロッキー状態になっている。もう完全に機能不全。もう国防云々以前の問題だ。日本は縮み続け、中国は伸び続けている。(つづく)
2010年04月09日
(4/7のつづき)3月11日の英文日記の見出しは、A big bad wolf goes up to China. とした。狼は訴える。Don't overkill. (角を矯めて牛を殺すな)と。狼を殺した中国は、モンゴル人を敵に回した。邪魔者は殺る、という凶暴なロジックで身を固めている中国は、周辺の諸国をすべて敵に回した。しかし、中国には「孫子の兵法」という秘密兵器がある。日本と米国の関係がぎくしゃくしているのを静観している中国は、そして孫子は、ホクソ笑んでいるのではないか。「日本がこれで中国の勢力圏内に入ったのだ。永住外国人に地方参政権を与えるのも時間の問題だから」と。(つづく)
2010年04月08日
(4/6のつづき)中国へ飛び立つ前に、陽明学のおさらいをした。朱子学から陽明学への移行の鍵は山鹿素行にある。殉死の前に究論(ディベート)せよ、という思想は、犬死の否定だ。山鹿素行を師と仰いだ吉田松陰も、死に陶酔することなく、死を恐れず大義に燃えた。『山鹿語類』は殉死についてこう語る。「死に至って、人の重き所なれば、是れ又究理することを詳にして而して死を全うすべし」「究」--この言葉の響きが好きだ。スズムシの大好物であるキュウリ(窮理)という音霊が今の私を動かしている。明日(3月11日)から王陽明を産んだ中国へ飛ぶ。(つづく)
2010年04月07日