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ニッポンとアメリカの「隙間」で、もがく。

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2010.12.24
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カテゴリ:帰国子女
これまで帰国子女イジメに遭ったということは書いたが具体的な内容には書いたことがなかったと思うので、記憶が薄れないうちに(といっても、もうだいぶ薄れているとは思うが)書いておこうと思う。

私は3年間おふらんすのパリに暮らした後、やはりこれもまた父の仕事の赴任先である福岡に帰国した。帰国にあたり、両親はパリで私が通っていた学校と似た環境のところがショックも少なくて望ましいだろうと考え、同じカトリック修道会の系列の女子校に私を入れることにした。その頃はファックスも電子メールもない時代だったから、母が学校あてに手書きの手紙を何度も何度も手直しをしながら書いていたのを覚えている。

しかし、両親がそこまで配慮してくれて入った学校で帰国子女イジメにあったのである(笑)。
そこは各学年2クラスの小規模の学校で、私立だったために子供の転校が少なかったのも理由だったのかもしれないが、恐らく、私が何かにつけて「フランスではこうだった、ああだった」というのは気に食わなかったのだと思う。「フランスではこうだったとか言わんときっ!」と具体的に言われたこともあったが、私としてはただ単に違いに対する自分の驚きというか、そういったことを話しているだけに過ぎなかったのだが、まあ、こういうことは日本人には嫌われるのだなと学んだ。

そのうち、私がこれまで日本の小学校での経験がなくて出来ないこと(習字とかそろばんとかその他もろもろ)に対し、いちいち「○○さん(私の名前)はパリにいたから××ができない」と言われた。挙句の果てには水泳のクロールが出来ないことに対しても(フランスの小学校では平泳ぎが最初でクロールは後)そんな風に言われたので、これに関してはあまりに悔しくてそう言った泳ぎの得意な子を見返してやろうとスイミングスクールに通って4種目泳げるようになった(笑)。

まあ、全員にいじめられたわけではなく、仲良くしてくれる友達もいたし、私も日本では外国に暮らしていたことを話すとやっかまれるのだなということを徐々に学び、いじめはなくなった。

その後、名古屋にまた父が転勤になり、そこでは地元の学区の公立の小中学校に通ったのだが、その頃には私は「フランスから来た子」ではなく「福岡から来た子」になっていたので帰国子女であることによるイジメというのはなかった。でも、小学校5年生の個人面談で、うちの母によると担任の先生が苦笑しながら「男の子ともワケ隔てなくしゃべるし、嫌なことはハッキリと嫌と言う」という変わった子として私のことを話したそうである。それを母から聞かされたのはもう大人になってからで、その時母がどう思ったかもよく分からないし(確か「ああ、やっぱりフランスにいたからかしら」とは思ったけど、というようなことを言ってたような気がするが)、だからどうしろと母から言われた記憶も特にない。

中学校では2年生の時に英語の先生が私がフランスにいたことに興味を持って、授業中に教科書の内容でアメリカやイギリスの文化に触れた箇所になると、何かと「○○さん、フランスではどうだったかね」と聞くようになり、それに答えるとクラスの他の生徒がそれを好ましく思っていない雰囲気を感じた。特に一緒に学級委員をやっていた男子があからさまに嫌な顔をしていたのは今でも覚えている。それで、とうとう職員室に行って、先生に直に授業中にそういうことを聞くことは止めてくれと言った。先生は理解してくれたが、そのやりとりの中で、どんな質問をされたのかは具体的には覚えていないものの、その質問に対し、私は「日本のやりかたにも外国のやりかたにも適応できる人が理想なのではないか」との旨の発言をしたことは覚えている。今考えると、ずいぶんナマイキな中学2年生だったなあ(笑)。でも、今でもその考えは基本的には変わってないけど。

高校は県立の自由な雰囲気の学校に行ったのだが、そこでは「パリジェンヌ」などと言われて好意的に受け入れられていたとは思うが、その時はもう帰国子女特有の性格も目立つほどではなくなっていたし、高校にもなると(特にうちの学校では)いろんな子がいて生徒のキャパも大きかったんだろうと思う。

そもそも最初の学校以外でなぜ私が帰国子女がバレたかと言うと、英語が一般的な日本人より出来て発音も良かったためである。それは英語とフランス語の文法も語彙も非常に似ていて私には英語の文法は非常に簡単に思われたということと、発音に関しては特に根拠はなくても、小さい頃に母国語とは違う音を聞き分けて発音するということ自体に馴れていたせいではないかと思うのだが、それで英語の授業中に指名されて音読をすると「オマエは海外にいたのか」と聞かれ、そこで「ハイ」「どこにいたのか」「フランスです」というやりとりになり、そこで「英語圏にいたのか」と聞いてくれれば「イイエ」で煙に巻くということもできたのだが、まあよい。

いずれにしても、年を経るごとに、私にとって帰国子女ということはよっぽどでなければ自分からは話をしないことであり、でもそれはたとえば出身はどこかということを気軽に言えないようなもどかしさを伴うものであった。大人になったらたとえば初対面の人に自分がどこの出身かをいきなり言ったりはしないものの、会話の流れの中で私の出身はどこどこで、そこではこういうことが行なわれている、というようなことを自然に言ったりするものだが、そういうことが帰国子女という事実に関しては出来ないような雰囲気を私は日本人社会の中で肌で感じていたのである。

だから、これはもう何度も書いたが、帰国子女の多い大学に進学し、英語の最初の授業の自己紹介のときに教師から「名前と出身地と海外経験があればそれも言ってください」といわれたのは本当に衝撃的だった。名前と出身地を言うのと同じ気楽さで海外経験について話すことができるということに対する衝撃。そのクラスは特に20人のうち海外経験が全くない人が2人ぐらいの、帰国子女が当たり前のクラスで、私は逆に、アメリカが長くて「マイケルジャクソンのニューアルバムが」という日本語を「マイコゥジェーーーークスンのニューエーボムが」と英語の部分だけ本場の英語になる級友に非常な違和感を覚えたぐらいである(笑)。まあ、それは笑える話としても、やはり帰国子女だった友達はイジメに遭ったという経験を持っていた人が多く、それについて共有できる人が現れたというのも大きな変化であった。

私は自分の経験と考えを一般化するつもりは毛頭ないが、私個人の経験としては、この帰国子女イジメは私にとって日本人社会はどういうところなのか、何をすると何を言うと拒絶されるのかということを教えてもらった良い機会だと思っている。これも一例に過ぎないが、この大学で、インターナショナルスクール育ちでこの大学に通った後に日本の大企業に就職したサークルの友達は、そこでやはり日本人独特のしきたりや考え方にぶつかって非常に苦労したと言っていた。彼女は賢い人だったからそこで自力で学んだわけだが、大人の社会ではあからさまにイジメをしてくれない分、手ごわい。





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最終更新日  2010.12.24 07:29:26
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