カテゴリ:観光日記(県外番外編)
熊本のお話もこれで終わりです・・・
最終日は飛行機までの時間が空いたので少し熊本観光です。 熊本城・・・ 築城の名手「加藤清正」が築いた名城です。 加藤清正は一代で肥後1国52万石を築いた秀吉子飼いの武将です。 秀吉の死後、豊臣の武将たちは武断派と文治派にわかれました、それこに付け込んだ家康は武断派の武将たちを取り込みついには関ヶ原の合戦をおこします。 関ヶ原以降、世は豊臣から徳川へ・・・ 光成憎しで関ヶ原では東軍に属しながらも、豊臣への忠義を忘れず尽くした武将の中で、他の豊臣恩顧の大名に大きな影響を与える大名家が3家・・・ 一つは安芸広島49万石、福島正則の福島家・・・ もう一つは紀州和歌山37万石、浅野幸長の浅野家・・・ そしてもう一つ・・・ 肥後熊本52万石、加藤清正の加藤家です・・・ 大大名であり影響力の強いこの3家、徳川にとっては目の上のたんこぶ、 徳川の世を盤石なものにするためには邪魔な存在でしかなくなっていたのですね。 幸長と清正はなんとか豊臣を存続させようと、二条城での秀頼・家康の会見を実現させ、自らその警護にあたりました。。。 その数年後・・・ 清正は病に倒れ帰らぬ人と・・・、後を追うように幸長も病に倒れます。。。 あまりにもタイミングの悪いこの2人の急逝は家康に毒殺されたのではないかとの疑惑も生まれていますね。 清正50歳・幸長37歳での死去・・・ 幸長の37歳は当時としても早逝と言えるでしょう。 加藤家はその後改易となり、熊本には細川忠利が入城しました、忠利は入城に際し清正の眠る浄池廟に向かい「あなたの城をお預かりいたします」といって清正を敬ったそうです、 その後も清正の眠る本妙寺を自家の菩提寺と同様に大切に扱ったとか。。。 清正・幸長の死後、安芸広島の福島正則は言いがかりに近い強引な方法で所領を没収され不遇な晩年を送っています。 亡くなった清正・幸長の2人は時代はすでに徳川の物で、もはやいかんともしがたいものであるということをよくわかっていたようです、 それでも豊臣に忠義を尽くした・・・、一方正則は・・・、多分に時流が読めなかったところがありますね。 頭では分かっていても、行動にはできなかったのかもしれませんが・・・ その後安芸広島には浅野幸長の弟長晟が入り幕末までその命脈を保っています。 忠臣蔵で有名な赤穂浅野家はこの幸長・長晟の弟の家なのですよ・・・ 浅野長政の3男「浅野長重」の家ですな。。。 織田がつき、羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食らう徳川・・・ 破壊と創造と維持・・・ 時代は徳川を選んだようです。 さてその後の熊本城は・・・ 実は熊本城は結構最近までその姿を保っていたのですね、 まあ実戦にさらされることもありませんでしたので。。。 実戦に使用されたのは西南戦争。 熊本城は4000人で14000人の西郷軍の攻撃に耐えついにこれを撃退しております。 清正の築いた名城は明治になってもその守備力を如何なく発揮したようで・・・ 熊本城はこの西南戦争で城の主要構造物である小天守・大天守を含む多くの櫓が焼失しています、 今の熊本城はその構造物よりも石垣の見事さが魅力でしょうかね。。。 この見事な曲線・・・ これだけでも防御力の高さがわかろうというもの。。。 加藤清正は現在でも「清正公(せいしょこ)さん」として信仰をあつめていますよ。 今日は熊本城のお話・・・ ではまた・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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