テーマ:たわごと(26808)
カテゴリ:おっさんの主張
さて、今日はちょっと雑談です、
ブロ友さんに何度か戊辰についてコメントしましたが、コメント欄ではなかなか書き切れないこともありますので、ここで一度日記で取り上げたいと思います。 今日はちょっと会津目線で戊辰について書きます、山口県・鹿児島県のブロ友さんは悪者にしてごめんなさいね、 維新の偉業を否定するものではありません、会津がなぜ滅ぼされねばならなかったのか、そのあたりをちょっと書きたいので、今日のところは悪者になってくださいね。 まず当時の会津藩の立場、会津藩は当時京都守護職にありました、攘夷運動さなかの京都にあってそれを取り締まる立場にあった会津藩はどうしても嫌われ者にならざるを得なかったのですね。 当時の天皇は孝明帝です、孝明帝に最も信頼されていたのが会津藩主容保です。 当時討幕を画策する過激派の公家は孝明帝を事実上軟禁、偽勅(偽の勅使)を乱発します、それを支持したのが長州藩で孝明帝は確かに攘夷論者ではありましたが討幕の意思はありませんでした。 一部の過激派の公家と長州藩に利用されていたのですね、これを快く思わなかった薩摩藩が会津藩と協力し過激派の公家と長州藩を追放します、 その後、孝明帝を取り戻そうと長州藩が御所に攻め入ったのが蛤御門の変。 これに怒った孝明帝は、長州藩を朝敵とみなします、晩年孝明帝は長州を逆賊と公言していたといわれています。 本来孝明帝に最も信頼され、朝廷に対して何の反抗も示していない会津藩が逆賊であるいわれがないのですね。 この後、時代は大きく動き、孝明帝は亡くなり、明治帝の時代となります(一説には扱いにく孝明帝は毒殺されたとも言われています)、 犬猿の仲と言われていた長州藩と薩摩藩は坂本龍馬の働きで秘密同盟を結びます。 幼い明治帝に政治能力はなく、朝廷は一部の過激派の公家と薩摩藩・長州藩に乗っ取られます。 幕府としてはそうした奸臣を追討すべく軍を進軍させます、これが鳥羽伏見の戦い。 薩長連合軍側は錦の御旗をあげ勅命を受けた官軍であることを主張、これに愕然とした幕軍は総崩れになったと言われていますが、実際には正式な勅命は受けておらず、いわば偽官軍でした。 何とか幕府を倒したい薩長連合側は過激派の公家をたきつけて、密命による討幕の勅使を取り付けます、しかしそれは大政奉還により討幕の意味を消失し、延期の命令が出されています(事実上中止) しかし何としても幕府を倒したい薩長連合側はこの命令を無視して挑発行為を続けます(実際には彼らがかこっていた攘夷討幕浪人を抑えることができなかったのですね) これはやがて庄内藩の薩摩藩邸焼討ち事件にまで発展し、諸藩から薩摩討伐を望む声が高まりました、 こうして起こったのが鳥羽伏見の戦いで、薩長側の挑発に負けて戦争に持ち込まれたと見ることもできますね。 しかし戦力、政治情勢からすればまだ十分に勝てる戦いでもありました、ところが当の徳川慶喜に戦う意思がない。 戦力の拮抗した両軍が戦えば戦争は長引き国力を疲弊させるという高度な政治判断であったのか、はたまた単なる腑抜けであったのかは今となってはわかりません、 慶喜は早々に江戸に退却、鳥羽伏見の戦いは敗北に終わります、 その後、江戸城は無血開城、幕府が降伏してしまった以上、会津に戦う理由はなく、容保は蟄居、恭順の意を示します。 本来であればこれで戊辰戦争は完結、最小限の犠牲で戦争は終結めでたしめでたしとなるはずなのですが・・・、そうはいきません。 なぜか?・・・ 新政府軍は革命勢力、自らの正当性を示さなければなりません、本来であれば、勅命を受けて江戸城を武力制圧するのが最も効果的だったのですが。 江戸城は無血開城してしまったので名目上討幕は成ってしまいそれもできない、 そこでターゲットとされたのが当時幕府から最も信頼され最強と言われていた会津藩です。 もう読めましたね、そう新政府軍は会津の恭順を認めず、仙台藩、米沢藩などの東北諸藩に会津追討の令を出します。 これに怒ったのは仙台藩、米沢藩らの東北諸藩です、 会津に何の罪があるのか?、幕府に請われやむを得ず従事しただけではないか、会津は逆賊にあらず、とこの命に従わず、 どうしてもというのなら一戦も辞さずとの構えを示しました、つまりここで会津の恭順を受け入れていればなんら無駄な血を流すことなく戊辰戦争は終了したのです。 なぜそうまでして幕府や会津を倒したかったのか?、それは薩摩藩も長州藩も藩の規模の割に武士の数が多い、高給取りが多い会社のようなもので新政府を樹立し維持していくだけの資金がなかったのですね、 なので幕府や会津藩といった勢力を討伐し大義名分のもとにその資金を没収し新政府樹立の資金に当てたかったのですね。 東北諸藩が地方封権を保とうとしたなどというのは新政府軍を正当化するためのまやかしです(そのような側面が全くないとまでは言いませんが) とっとと降伏すればよかったのだ?、会津はそれさえも受け入れてもらえなかったのです、 その会津の赦免を支持したのが東北諸藩です、江戸城無血開城から先、北越戦争・会津戦争は新政府軍側の都合でおきた戦争という色彩が強いのです。 戊辰を考えたとき主犯はどう考えても徳川です、主犯でない会津が主犯の徳川以上に重い処分が下されるのはどう考えても不自然です。 会津23万石、実際の内高は40万石を超えていました、戦後会津に下された処分は斗南藩3万石への移封、斗南は不毛の地、実際の内高は7千8百石にすぎません。 石高の98%を没収されるなど常識で考えてありえない処分です。 北越戦争の前、長岡藩は獨立特行を主張し新政府軍と奥羽列藩同盟の仲裁を引き受けると申し出ましたが一蹴されています、 当然です、新政府側に会津を許す気など毛頭なかったのです、仲裁など不要、何が何でも時代の転換の象徴として滅ぼす予定だったのです。 こうして越後の地に無用な血が流れます、そして会津にも。。。 江戸城が無血開城した時点で会津には戦う意思はありませんでした、実際に藩主が城から出て蟄居していますので・・・ しかし東北諸藩からの支持を受け、どうしてもやるというのなら受けて立つという姿勢へと変わっていきます、 もともとがいわれのない罪を着せられているのですから当然と言えば当然です、 確かに東北諸藩は兵器の近代化という時代の流れに疎いところがありました、 なぜそうだったのか、それは東北という地理条件がそうさせたのかもしれません、なぜ長州がいち早く西洋の近代兵器を取り入れたのか、 攘夷運動で無謀な戦争を仕掛け、こてんぱんに叩きのめされてきた長州藩は近代兵器の威力というものを身に染みて分かっていたのです、 そのような機会の少なかった東北諸藩が近代兵器というものに疎かったのは当然なのかもしれません。 そんな東北諸藩も戦争が続くにつれ近代兵器の威力、新時代の幕開けを否が応でも理解していきます。 儀のない戦とは思いつつも、藩の存続をかけてまで会津を守ろうとする勢力は次第に弱まり、離反が続いていきます。 北越戦争以降の戦争を旧時代の制度を守ろうとした地方政権と新政権の戦いと言われることがありますが そんなものではない、 あれは新時代の幕開けを告げるデモンストレーションです、その犠牲となったのが会津藩です。 歴史とは勝者が作るものです、この時点で敗者の正義は徹底的に排除されます。 これは戊辰戦争でも一緒で、今に伝えられる歴史の多くは明治新政府が作り上げた歴史でもあるわけです。 会津はその後も逆賊として差別され続けます、 通常県庁所在地というのは大藩のあった場所に置かれます、 しかし会津23万石の本城のあった、会津若松は完全に無視され大学などの重要機関は福島に設置されます。 会津は近代化の波から完全に取り残され差別されていきます、これが後々まで禍根として残っていくことになるのですね。 会津がなぜ征伐されたのか?、もう一度冷静に考えてみてください。 会津が滅ぼされた理由は3つ。 1、長州藩は攘夷運動のさなか京都守護職にありことごとく対立した会津藩が憎かったのです。 2、現政権である幕府を倒した革命政権である明治新政府はその正当性、正義、平和は我にありということを全国に知らしめる必要があり、そのための生贄が必要だったのです。 3、現政権を潰し新しい政権を立ち上げるのには莫大な資金が必要だったのです、その資金を確保するためには潤沢な資金を持つ藩を大義名分のもとに叩き潰し、その資金源を横取りする必要があったのです。 会津戦争を会津藩主容保の愚かさから起きた戦争だと主張する人もたくさんいます、 しかし過去を知る現在の我々が時代を飛び越えて藩主になり替わり、会津を存続へと導いたとしても、 千回歴史を繰り返しても会津戦争を止めることはできないでしょう。 時代の歯車は複雑に絡み合い大きなうねりとなって会津を破滅へと導いていきます、もはや藩主一人で止められるものではない。 会津は時代の波に飲み込まれ滅ぶべくして滅んだのです、それを止めることなど誰にもできなかったのです。 明治維新が成り日本は近代国家への道を歩んでいきます、その偉業は誰も否定するものではない、 しかし明治新政府が行ってきた行動がすべて正しかったわけではない、 「廃仏毀釈運動」や「マリアルーズ号事件」などこれまでにも取り上げてきましたね・・・ 戊辰戦争もまたしかり、新政府軍側が常に正しく正義であったわけでは決してないのです。。。 この後、明治新政府は天皇を神格化し、国家神道保護の名のもとに靖国神社に特権を与え、宗教と結びつきながら軍国へと傾いていきます。 太平洋戦争の種がこの時すでにまかれているのですね・・・ 歴史には二面性があります、この軍国の動きは次の日露戦争をはじめ、西洋列強各国の脅威に負けず日本が植民地となるのを防いだというのもまた事実です。 戦争の正義とはいずれにあるのか?、いずれにもないのです。 そもそも戦争という行為に正義などというものは存在しない、起こした時点で勝とうが負けようが悪であるのです。 人殺しに正義などというものはないのですよ。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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