カテゴリ:~第3章~矢部教授、その恋
独逸に留学してから30年近い歳月が流れようとしていた。
このままここで果てるもまた人生かと知命を迎えた頃、独逸の総合大学で教鞭を取っていた私に日本から二通の手紙が届いた。 1通は、K大学医学部の旧来からの友人の手紙であった。 「教授として君を大学に招聘したい。この前は断わられたが、今一度、前向きに検討頂けないものだろうか」 そして、もう1通は浩介からであった。 「この春に入院したので、今年は独逸に行けない。お前との再会を楽しみにしていたのに、残念だ」 心なしか字に弱々しい翳りを感じ、胸騒ぎを覚えた私は急ぎ帰国の途に就いた。 久方ぶりに会う浩介はその手紙の内容に反し、元気だった。 「なんだ、後100年は長生きしそうじゃないか。帰国して損したよ」 こんな恨み節も出る位、ヤツは元気だった。 しかし、ヤツの口から出た病名は私を慄然とさせた。 「肝臓ガンだとさ。手術は出来ないと言われたよ」 こうした中で、ヤツは決して諦める事無く精力的に治療を受けた。 私は、大学での講義が終わると出来る限りヤツの顔を見に病室に足を運んだ。 ヤツは私の顔を見ると空元気を振り絞って、こう言ったものだ。 「事業も立て直したんだ。自分の体も立て直して見せるさ」 だが、ガンは徐々に進行し、ヤツの快活な口調をも蝕み、段々、ヤツは悟りの境涯へと向かっていったように感じた。 浩介が亡くなる1週間前に初めて私は30年振りに芳子さんと病室で再会した。 ヤツは私と芳子さんを前にしみじみと語った。 「太一、オレはな。最近は、事業の失敗も、この病も神様からのプレゼントのような気がするんだ。・・・・・・いや、強がりで言っているんじゃない。 地獄も天国も己の心次第。全てがオレの中にいるんだ。 事業を失敗してから、オレは家族の絆を、病に臥してからは、家族の愛情を真に得ることが出来たんだと思えるよ。今は心が凪いでいるよ」 浩介は私と同じ年であったが、私の何十倍もの速度で人生の安らかな境涯を得ているように思えた。 浩介の亡くなる1時間前、私はいつものようにヤツの病室を訪れた。 混濁する意識の中でヤツは、私に芳子さんと息子の将来を託した。 そして、「すまなかった」と言って最期の力を振り絞り、手を伸ばした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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