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テーマ:ささやかな幸せ(6740)
カテゴリ:火曜日:禅語
夕焼けこやけで日が暮れて、山のお寺の鐘がなる・・・・。 からす、何故啼くの?からすは山に~・・・・。 等など、童謡は子供の頃から傍にあった歌。 祖母や母に手を曳かれて、堤防沿いの散歩道。 自分と大人の影ぼうしで遊びながら、毎日のように歌った歌です。 お手手繋いで、野道をゆけば~。 ぎんぎんきらきら夕日が沈む、きんきんきらきら日が沈む・・・。 こっちは、父と一緒に歌った歌。 いつも帰りの遅かった父との散歩は、休みの日の夕方。 恐らくは母や祖母が夕飯の支度に勤しんでいた頃、妹と私を連れ出しての散歩道。 いろいろな歌を皆で歌って、夕日のスポットライトを浴びながら、小さな発表会気分で過ごした夕餉までのひと時。 それは、長じて後に認知症にて会話がままならなくなった祖母とのコミュニケーションの手段として、そして物言えぬ幼子のまぁちゃんとの歌を通しての会話として、大活躍してくれました。 もちろん、今でもまぁちゃんとはよく二人で歌を歌います。ミュージカルが大好きなまぁちゃんとは、毎日のようにいろいろな歌でステージごっこ。 子供の時に歌っていたきりすっかり忘れていた歌も、童謡の本やCD、HPなどであやふやな部分を固めて、たくさんの歌を歌っております。 そんな時間に思いだすのは、歌と共にいろいろと話してくれた、祖父母や、父母達の言霊の数々や行いの数々。 直接耳に目にしていた当時は、ふーん・・・程度に聞いていた物や、そうなの?程度に軽く考えていた言霊や姿達が、大人になってふと心の奥底の泉から湧きあがり、大きな泡となって心の表層に波紋を作り出してくれます。 時に今の自分自身の行いを正してくれたり、時に励ましの言葉をくれたり、時に寄り添ってくれたりと、祖父母、父母達の言霊や姿形が、大応援団になってくれているのを感じる今日この頃です。 いつの日かまぁちゃんが長じた暁に、私の一挙手一投足が彼女の応援団になってくれたらいいなぁと願いつつ、開いた禅語の本は、まさにそのための珠玉の言葉。 今日の教科書は↓の本です。 行住坐臥 日常の立ち居振る舞いが心を育てる。 行く、住まう、座る、寝るという日常の行動を4つの威儀という。禅宗では日常生活の全てが修行であり、とくに規律と作法に則った行動を重んじる。(威儀即仏法も同様の意味) 電車の中や公共の場所での若者の行儀の悪さがよく取りざたされます。脚を広げて二人分の座席を占領したり、路上にタバコの吸殻やお菓子の袋をポイポイ捨てたり・・・・。 大人もまた、普段の行動に恥じる事のない人は少ないでしょう。 「行住坐臥」とは、行き来、起き伏しの日常の振る舞いの事。この行・住・坐・臥を4つの威儀といいます。この言葉を禅で尊重するのは、日常生活の立ち居振る舞い、すべての行動に規律と作法を忘れるなということなのです。 禅宗では、起きて顔を洗うこと、食事を頂くこと、歩くこと、座る事、日常生活の全てが修行であり、日常生活の中にのみ仏法は存在していると考えます。非日常的な荒行や難行から仏の道が開けるわけではないのです。 日常の言葉にもなっている「威儀を正す」とは、自分の行動を振り返り、礼儀や作法にかなった立ち居振る舞いや行動をすることです。 これは言い換えれば、「美しい生き方をしなさい」ということ。 行儀の悪い、だらしのない日常生活からは、けっして美しい人生は手に入りません。ときには自分の「行住坐臥」を振り返り、威儀を正す努力も必要です。 (ふっと心がかるくなる禅の言葉 永井政之氏監修より) 威儀を正した姿を、子供に見せる事ができるように・・・・。 威儀を正せるようになった姿を、親に見せる事ができるように・・・・。 威儀を正す姿を、自分自身に知らしめる事ができるように・・・・。 まずは、行住坐臥を整えて、しっかり修行をいたしましょう。 あの日見た夕焼けのように、きらきらと輝く真っ赤な血潮を自分自身の中に滾らせて。 どんな自分で過ごせるか?さぁ、明日も楽しみ。
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