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カテゴリ:言の葉
昨日の朝日新聞のコラム「心の風景」で、切通理作氏が、“憲法と主体性”について書かれていた。
改憲論争において、護憲派も改憲派もどちらも「主体性」を求めているのではないか。自分たち国民が選んだ法律として改正するか、現行のままにせよ自分たちの言葉として取り戻していかねばならぬと。しかし、本当にそうなのか?と問いかけてから、 “法律とは、みんなのやりたいことを実現するためのものなのだろうか。 むしろその逆ではないのか。 誰かの、あるいは一部のエゴだけを通すことで、他の人々が一方的に犠牲になるのを防ぐための「バランス」なのではないか。 たとえば儲けたいから兵器を売って戦争を起こし、それで多くの人々が犠牲になっても構わない、という立場にだけ都合がよくならないようにするために有効なのが「きまり」なのではないか。 *** 「人権」という言葉も、今日では権利を主張する側の言葉としか思われていないが、一人一人が他人を犠牲にし過ぎないためのものなのではないか。 *** 「主体性」の呪縛の先には結局、滅私奉公させる側にとって都合のいい罠が待ち構えている予感がするのだ。” このあたりに、憲法を語る新しい言葉が見つかりそうな気がする。 先日の改憲試案などを読んでいると、全く逆行している部分があると思う。 この機に乗じて一部勢力の都合のよいような改変がなされないためにも、心していなければならないと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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