「コミュニケーションと社会」
もうひとつ気になっている、1月3日の朝日新聞の記事。2010年代 /どんな時代に/ ネットが世界を縛る 写真家・作家 藤原新也 インタビューより*1* タレントの人気が「好感度」によって査定されるという、あの不可思議な評価基準。いまやタレントのみならず一般人、企業やマスメディア、政治までもが、その好感度という尺度で査定される。*2* その目に見えない風圧にさらされ、いい人を演じて波風の立たない気持ちの良い人間関係を作ることに個々人が腐心する。そこには、相手の言葉や行為を正面から受け止め、たとえ軋轢が生じても自らの思い、考えを投げ返すという、本当の意味のコミュニケーションが希薄だ。*3* こういった空気読みの風景は、2001年の9.11同時多発テロ事件以降の一般的傾向のように思う。*4* 強まる相互監視 波風立てず「空気読み」*5* 今後のコミュニケーションはどうなるか。*6* ネット社会が臨界に達したときに、ゆり戻しが来るのではないかと期待をしている。*7* 「ライブ感」再び注目*8* 今後10年それに似た身体性の復活は方々で起きるのではないか。*9* ブログがタイムラグのある「文章」ならツイッターはライブで発している「声」や「呼吸」に近い。*10* だが僕個人は、このツイッターに可能性を感じながら警戒もしている。それは逆に考えると究極の相互監視システムでもあるからだ。あののどかなブログでさえ自分の居場所や思考が不特定多数の人々の目に曝されるわけだ。ツイッターはさらに「タイムスライス」で刻々と自分の行動が明らかになる。自分の身体をCTスキャンで輪切りにして白日の下に曝すようなものだ。*11* ツイッターが新しいメディアにもかかわらずその使用者の中央年齢値が高く、子供や若年層が意外と参入していないのは、「学校裏サイト」などで彼らが死活問題とも言える辛酸をなめているせいかもしれない。 (聞き手編集委員・四ノ原恒憲)「いい人、いい子への過剰適応」というのは、私にも覚えのあることで、耳が痛い。またその延長線上に、「いい子」を子に強要する母親であったともいえる。子育ての間中、そのことを思い知らされてきた。それが、いい意味でも悪い意味でも*2*につながってきていると思う。人間が本当の意味でコミュニケーションをとろうとしたら、行き着く果ては命がけの殺し合いになってしまうのではなかろうか。そこを埋めるように、警戒しながらもコミュニケーションを求めて私達は、ブログやツイッターにはまっていく。ライブ感の復活が、「相手の言葉や行為を正面から受け止め、たとえ軋轢が生じても自らの思い、考えを投げ返すという」ある意味成熟したコミュニケーションにつながる演習になればよいのだが、と思う。ここで私のツボにはまったのは、「のどかなブログ」という言葉。「のどか」もその裏に潜むものは人間である限り、こわいものなんですよね。のどかなブログさん。ツイッターは私はまず能力的に、だめですね。のどかなブログが向いています。