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カテゴリ:言の葉
<思想の言葉--宗教と悪>より 島薗 進(「思想」1995/5岩波書店)
*宗教は善と悪を振り分ける。宗教に身を寄せる人はわが身を善の側に置き、他者に悪を投影し、担わせる。内外の悪の勢力を退治し、自己が属する善の力を維持、拡大せんがために他者を引き込み、同化し、抑圧し、追放し、排除し、血祭りに上げようとする。自己自身に向き合うときも、宗教は自らが掲げる救いの道に従うことで、因果応報--善の勝利と悪の克服が実現できると教える。善行は幸福を、悪行は不幸をもたらす。たとえ、今のこの世の生活で帳尻があわないとしても、生まれ変わりや死後の審判で正当な報いが実現する。このように善悪の複雑なからまりあいを解除整理した上で、悪の克服への素朴な信頼を鼓吹するのが宗教だ、と受け止められている。 *だがそうなのだろうか。宗教が安定した社会秩序を維持する働きをするという議論に、ある程度の妥当性があるとしよう。また、苦難という「こうむる悪」の経験の圧倒的な力にいくらかなりとも想像力をめぐらせよう。どれほどのうめき声の中に地球は漂っていることか。そして苦難=悪を引き起こした責任が誰か(個人・集団)にあるという思いは避けがたいし、しばしば正当である。しかし正当な主張が実現されないことはむしろ多い。正義と力の配分は合致しない。他者が「犯す悪」を告発し続けても、どれほどの効果があろうか。多量の善でおおわれる社会が、人知人力で近づいてくるとはとても思えない。とすれば、いちおう無力な人間の現状を受け入れた上で、悪の克服にまつわる物語に耳を傾け思いを凝らすことがむしろ順当な態度となろう。宗教が悪の克服を説く背後には、悪の執拗で圧倒的な実在への峻烈な確認と問いかけが含まれていると考えた方がよい。 中略 *しかし、もう一歩、踏み込んで事態をのぞき込むと、そこには進歩の神話の失墜という深いトラウマが見て取れる。冷戦時代には疑われつつも何ほどかの威信を保っていた自由と繁栄の、あるいは平等と連帯の「善の王国」のイメージは今や見るも無惨に色あせ、むしろ「暴力と排除の近代」の扇動者隠蔽者の言説と見えるようになった。競争前進のエートスを抱え込んだ学問の世界での近代批判は、ここに突破口を見いだそうとする。文明の進歩を語る神話的言説がいかに悪の源泉となったことか。「批判」や「脱構築」は「正当」そのものであろう。だが、その正当性の語り口はしばしば前進する啓蒙の平板さに通じている。悪との戦いの意図はまことにまっとうであるとしても、その所作がひきつったものに見えてしまうことがある。悪の露出と告発が高尚難解な装いをこらしても、内に平板な否定の音調を伝えていて、悪を孕んだ豊かな生のヴィジョンへとつながらない。 後略 昔、心身がどん底状態にあったとき、信仰への道しるべを教わったことがある。 しかし結局私は宗教への信仰には到らなかった。 その後この文章に出会い、自分への理論付けがなされたように思った。 全部を引用することはできないので、要となった部分だけを書いておきます。 ふと思い出したので。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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