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カテゴリ:大山街道
忘年会も終わり、今年のイベントももう終わりかと思ったら、とつぜん!
伊勢原比々多ウォークラリーのガイド要請があり、珍名で知られる「伯母様」を担当してほしいと。 急いで下見に行ってきました・・・ 珍名で知られるバス停 なかなか昔の事を知っている方が少なく、聞くことができませんでした。 丁度その時、伯母様観音の前で、何やらのぼりを立ててる方に出会い尋ねると、なんと!明日のウォークラリーの準備をしているという。 それなら、ここのお宅が詳しいと紹介していただきました。偶然か!その方が、この「由来伯母様」の由来についての資料を、ラリーの参加者に渡してあげようと、沢山コピーを用意していたとのこと。 だが、どうやって配布しようかと、悩んでいたところだったらしい。 それなら、明日私が「伯母様観音」のガイドを担当する予定なので、配布しましょうと言うことに・・。 自分なりに昨日資料を作っては見たものの、この地にあるバス停が「伯母様」という珍名であることは有名なのですが、その地名の由来や「伯母様観音」に関する情報が乏しく、困っていたところでした。 明日は、観音様が見られるかも 見られました(12月15日更新) 伯母の地名と伯母様村観音の歴史 小泉家の資料による 伯母様村 村名の由来 1550年代後半に戦国大名三代 後北条氏康が、永禄の頃(1558年~1565年)に、布施弾正左衛門康則(小田原家の家臣)に、当伯母様村を所領として与えた。 この名、伯母様村は、布施氏の伯母、梅林理香大姉(りかだいし)が、当村を所領したことにより伯母様村というようになった。梅林理香大姉は、天分19年(1550年)没、その位牌は光岳院に安ず、とある。 その「伯母様」がこの地名の由来となったと言う。 伯母様村観音について 今を遡ること約230年前の宝暦年間(1751年~1764年)、伯母様村は、大山参詣に関東一円から、年間約20万人が当村を往来していたところであった。 当時の伯母様村の民戸は狐橋村を含め、84戸(天保1841年現在)であった。 宝暦年間は、享保の大飢饉から続く全国的な大凶作の時期であった。 こうした時期ゆえに農民を含めた江戸庶民は大山講を作り、大山参詣に、陸・海路をいとわず雨降山大山寺にお参りに来た。 登拝者は、豊作や自分達や生まれ来し子らの除災を祈った。こうした風景の中で中で伯母様村の村民は、陸属する庶民の大山参詣の為、少なからぬ潤いを受け、当石仏の造立を志したと思われます。 石仏の安置場所を大山道に安置したようです。 『観音様とは、皆様もご存知の通り観音菩薩のことです。 この菩薩はインドの地に起源をを持ち、悩める世間人々の音声を観ずる者との意を体現しています。 一心に観音の名を称えれば即時にしてにその音声に応じて衆生(しゅじょう)の七難を救うために様々な姿を現すと説かれています。 その七難とは、火難・水難・羅刹難(らせつなん)・刀丈難・悪鬼難・紐械か鎖難(ちゅうかいかさなん)怨族賊難のことです。 羅刹難:翻弄される難 刀丈難:刀や棒等で打たれる。危害を加えられる 悪鬼難:悪いことを旨とする下魂に害を加えられる難 紐械か鎖難:罪を犯し、または、冤罪により鎖につながれること。 怨賊難:盗賊や悪意悪意の金儲け、詐欺などの被害。 伯母様村の村民は、これから観音様の信仰を致知(ちち)し、観音講を結び自分達を含め、庶民全体の安寧(あんねい)を祈る具像(偶像?)として当石仏を建立したのでしょう。 こうして出来上がった観音様自体で、魂が入っています。 その魂とは、伯母様村の人々の信仰心の発露(はつろ)が具(偶像)化し、現にある石仏としての命です。 石仏に純真に祈ることによりいつまでも続く命なのです。 230年前のご先祖様方に通ずる村民の皆様の祈りであります。 そしてこの観音様こそが、その橋渡しを末永く続けてくださることでしょう」。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018.12.15 19:09:00
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