人が生きていくのに重要なはずの「価値観の形成」に関して、国家のイデオロギーによる押し付けや、宗教による導きや、地域や親からの伝承もすっかり薄れてしまったのが今の状態ではないかと思います。これは、人類未踏の状態ではないでしょうか。ほんの100年前であっても、「ただ生き延びる」ということさえ実に難しいことであり、宗教や地域が「価値観」を支えていないと個人も社会も到底成り立つ状況ではなかったはずです。
現代の日本は、無宗教であっても、地域から切離れて生きていても、命の危険にさらされることはありません。クールでハッピーで効率的に生きることができるし、それが優先されがちです。お互いがお互いの生き方に深く関わることを避け、関わられるのを「うっとおしい」と感じるようになっているのでしょう。
価値観の形成は個人に任されてしまっており、個人は個人の責任で価値観を打ち立て、その結果(成功も失敗も)を個人が受け止めなくてはならないような状況です。
なら、それでうまくいっているのかというと、そうでもない。
例えば、下に書いた4つのことは、誰もがわかっているはずの当たり前のことです。
◆自分のわがままを良しとして通してばかりいれば人との折り合いがつかなくなる。
◆際限なく欲をエスカレーしていくといつしか犯罪者になるかも知れない。
◆努力や我慢を放棄すれば生活苦に陥る可能性がある。
◆助け合いを忘れれば、社会は崩壊する。
こんな当たり前のことがわからなくなくなってきています。
わかっていないという状態にさえ気が付いていない人がたくさんいるように思います。
もう少し具体的に言うと、
◆子供に虐待を続けていたら、大きくなって反撃を食らって家庭内暴力に悩んでいる。
◆勉強ばかりしてきて高学歴になったけれど、生き甲斐のある職に就けなかった。
◆テレビとゲームとネットにはまっていたら、いつの間にかニートになってしまった。
◆ご近所に挨拶さえしないようでは社会が荒んで不気味な犯罪が増え、やがては自分の身に降りかかってくる。
・・・事の大小はあるのだろうけれど、価値観が自分の中に形成されていなかったり、価値観がゆがんでいたりすると、どこかで人生に狂いが生じる可能性は誰にでもあります。勿論、価値観を身につけることは最終的には個人の問題であり、その結果を背負うことは個人の責任です。しかし、「アリとキリギリス」の話の続きに飢えたキリギリス達が徒党を組んで収奪を始めるというストーリーがあるとしたら、それはキリギリス個人の問題とは言えなくなってくるのではないでしょうか。
では、誰が価値観を形成することをサポートしてあげたり、ゆがんだ価値観を正してあげたりすることになっているのかというと、はじめに書いた通り、宗教も地域も力を無くしてしまった今、誰という事もないというのが現状です。学校だって機能していません。そもそも子供たちの「価値観の形成」を全て学校に任せるというのも無理があるし、ではどの親にもできるかというと、それは難しいと思います。それで、誰がどうやって「価値観の形成」の役割を担うのかが、実にあいまいになってしまっています。
このまま「価値観の形成」という根源的な課題に向かい合うことを個人任せにしてしまっていては、個人や社会を誤った側へとどんどんずり下げて行ってしまうのではないかと思います。
まず「なぜ生きていて、どう生きるべきなのか。」という問いに向かい合うことができるようになるには、どうしたらいいのかを「社会として」考えていく必要があるのではないかと思っています。
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「なぜ生きるのか、どう生きるのか」
この問いに対する答えをさがす時、「死」について考えることはひとつの大きなヒントになると思います。現代社会においては遠巻きに眺めるだけになってしまった「死」について、もう少し近くに取り戻す必要があると思っています。「死」を通して考えることで見えてくる「生」もあると思います。
どうやって「死」を近くへ取り戻すのかということについてを、もう少し練っていく必要もあると思うのです。それには、多くの議論が必要だと思います。
そうして見えてきた「生」の中に、失われた「つながり」を再生する意味が見えてくるのではないかと思います。