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テーマ:ノンジャンル。(2210)
カテゴリ:神社、史跡と歴史
大和三山を登った。飛鳥を歩いてきた。結構な強行スケジュールだったが
梅雨の時期にもかかわらず、天気にめぐまれ充実した旅になった。 写真は、甘樫の丘にある豊浦展望台からは三山と飛鳥がみえる。 畝傍山(左)(199.2m):意味はわからないが、もとは”おみねまやま”とか”じみょうじさん”と言われていたそうだ。(北西方向) 耳成山(右)(139.7m):耳成し=耳の形をした山という意味(真北方向) 香具山(右下)(152.4m):”かぐ”とは銅をとること(”かる”は銅の意)を意味するという。(北北東方向) 甘樫の丘の南東には飛鳥京跡の飛鳥寺や板葺の宮と伝えられる場所がある。 その飛鳥寺のすぐとなりには、蘇我の入鹿の首塚といわれる五輪塔があった。(右下写真:飛鳥寺付近) 乙巳の変(大化の改新)で討たれた入鹿の首が板葺の宮から飛んできたと伝えられる。そこには供養塔がある。南の方向には、大きな建物もなく約1kmほどの板葺きの宮跡までの距離がじかに感じられた。 甘樫丘からは飛鳥を一望できる、いいかえれば飛鳥を見下ろせる場所ともいえる。 甘樫の丘には蘇我の蝦夷(上の宮門)、入鹿の屋敷(谷(はざま)の宮門(みかど))があったと考えられていて、実際に その南東部で、焼け跡とおもわれるものも発見されている。 蘇我氏の飛鳥に対する立場が垣間見れる感じがする。 飛鳥は 明日香とも書く。漢字には意味をもたない。 ”あすか”の枕詞の”飛ぶ鳥の”を当て字されたもので、あすかの意味は、 ”あ”が接頭語で、”すか”が砂が多いとか、川の洲の意味だという。 蘇我の馬子の墓といわれている、石舞台古墳にも行ってきた。 石室の巨石は圧巻! 馬子の墓といわれる、石舞台古墳だが、石棺はなく石室はむき出しで最大といわれる55メートルの方墳の土はすべて取り除かれている。 残念ながら他の多くの古墳が盗掘の被害を受けていると同様に石舞台古墳も盗掘をうけていたるのだが、内部が開放されていて入ってみることができた。 巨大な石を積み上げた馬子の力の大きさに驚くと同時に、その盛り土をとって残した(剥ぎ取った?)、ということにも、ある意味驚かされた。 古代において墓を荒らされることがもっとも屈辱的なことだったというが、 その古墳をつくったエネルギーと、その盛り土をはぎとったエネルギーが あったようにも思う。いったい剥ぎ取ったのは誰だろうか・・・。 飛鳥京は人口 約3万の都市だったという。 この見渡せる狭い地域、集落とさえ呼べるほどの地域範囲(幅500m、長さ2km)に 古代の都があった。 このことが、古代のこと 遠い昔のことなのに、リアルな感じをあたえる。 飛鳥京は、手狭なこともあって 都はわずか4km程北の藤原京にうつされるが 地形が悪かった(汚水が宮殿へと流れるなど)ため、16年の短い期間で終わり、 710年に 都はもっと北の平城京へと遷された。 大和の国は蜂子皇子の生れた場所、”ふるさと”である。 蜂子皇子がどんなところで育ったのかを見てみたいということもあった。 大和には古代の史跡といっしょに 日本の昔からの田園、棚田も残されていて その風景は本当にすばらしかった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年06月10日 18時18分19秒
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