298147 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

出羽の国、エミシの国 ブログ

出羽の国、エミシの国 ブログ

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

2008年10月20日
XML
テーマ:本日の1冊(3697)
カテゴリ:読書本(Book)
出羽の国の羽黒山には平将門が建てたといわれる五重塔(国宝)がある。五重塔の創建は平安時代中期(承平)とされ将門の生きた時代と合致する。しかし、このことは言い伝えとされ あまりはっきりしたことは分かっていないようだ。国宝の建物で、有名な五重塔なのだが、平将門との関わりはなぞの1つだ。


 なぜ平将門は、羽黒山の五重塔を建てたのか?・・・と古代に思いをはせながら、この本を読んだ。将門と、出羽の国とのつながりを探ってみたい。

 将門は関東の人で、下総の国西部、猿島・豊田郡(現在の茨城県坂東市)が本拠地であったとされている。桓武天皇の5代の後裔。(別の本では、千葉県東金市御門に生まれたという伝説があった。)
平将門の乱も、その周辺の関東を中心にして起こるのだが、将門はけっして出羽や陸奥とも無関係ではなかったようだ。

 将門の父は、平良将(よしもち)といい、鎮守府将軍だった。鎮守府将軍とは胆沢城(岩手県奥州市)にあるエミシ鎮圧のために陸奥国におかれた鎮守府の長官、のことである。
”良将の事績は知られていないが、将門の弟、将種が陸奥国に居住していたことがあり、将門も幼年期を陸奥国で過ごしたかもしれない”という。だとすれば、京都にいたという伝説もあるし、将門の行動範囲は広くなり、出羽の国にも来ていた可能性も考えられなくもない。

”出羽の国では天慶2年(939)に俘囚が反乱し、陸奥国の援助を借りながら鎮圧にあたった。当時、出羽・陸奥の治安も悪化していた。”その年の 天慶2年(939年)12月15日、将門は上野国に侵攻し、同12月19日に、新皇に即位する。

 同じように同年におきた藤原純友の乱と将門の関係もよくわかっていないが、出羽の俘囚の反乱との関係があったかどうかもわかっていない。この年は東北、瀬戸内、関東で同時期に乱があったことになり、偶然と考えるよりは凶作、天災など民衆の不満を引き起こす何かがあったのではないかとも思った。

九条殿記」(藤原師輔の日記)には
”天慶3年(940年)2月26日、将門が1万3千の兵を率いて、陸奥・出羽国を襲撃しようとしている、との情報が、陸奥国からの飛駅(早馬)により、都にもたらされた・・・”という内容があるという。
結果としては、都に将門が殺害されたという情報が入った数日後にはなってしまう。しかし、”将門が陸奥・出羽両国へ出兵しようとしていた可能性は、大いにあり得る”と情報の内容を重視する。確かに新しい発見だと思う。

一般的に将門の乱の原因は、なかなか分かりづらい。私には将門は小さい頃から、五重塔を造った なにか神様のような存在であった。しかし、この本で紹介する出羽の国の逸話は、それをわかりやすく説明してくれているように思える。

 出羽国田河郡の竜花寺(りゅうげじ)に住んでいた妙達という僧侶が書いた
”一度死んだ後、地獄をめぐって蘇生するという筋仕立て”の本(僧妙達蘇生注記/10C後半)である。(冒頭は他の本より抜粋)

羽黒山 五重塔(⇒写真は、羽黒山パンフレットより)

 太政大臣、藤原忠平(師輔日記のの父)は多くの除目(官職を与えること)を自分の思うままに行い、罪をつくった。これによって頭が9つある竜となっていた。
”下総国にありし平将門は、これ東国のあしき人也といえども、先世に功徳をつくりし むくいにて天王(天皇?)となれり。(天台座主)尊意(平安時代僧)は、あしき法を行て、将門をころせり。この罪によりて、日ごとに百度(ももたび)たたかいす。
(同国天台別院主)そうねんは、先世に将門がおや也、一生 仏の寺にすみて、観音をたのみたてまつり、おおくの とうをつくり、心よかりき。此功徳によりて、都卒天の内院に生たり。”

 妙達は鶴岡市の善宝寺の開祖といわれる人。地獄をめぐって蘇生するとは、羽黒山の山伏の修行そのもののようだ。内容は将門と忠平、尊意が地獄で裁かれた時の審判の結果を表しているのだろう。来世(地獄)では 将門は念願の天王(皇)となり、太政大臣、藤原忠平(貞信)が悪人とされている。

著者はこれに対して
”注目したいのは、将門を悪人としながらも、将門に対して悪感情をいだいていないことだ・・・将門伝説には、将門に親近感をいだいたものが少なくないが、将門に対する同情や思い入れは、伝承化の初期の段階から、すでに東国に広まっていたのであった・・・”という。

 私のいだく将門への尊敬や畏敬の念は小さい頃からのものだ。今回 この本を読んでその辺のいきさつが少しわかったような気がする。また、何とも言えない、歴史の非情さも再確認させられたような気がした。桓武平氏であるということも複雑だ。 将門が関東の王者であったことは間違いないし、将門があってのその後の関東であったと思う。この本では将門を武士の始まりとしている。武士の産みの苦しみの時期のようでもある。

 将門が出羽に来たことがあったとすれば、羽黒山に五重の塔を建てた可能性もあるだろう。私は、将門が、自分も天皇の末裔であったことから、同じように天皇になっていたかもしれなかった蜂子皇子(羽黒山の開祖)を慕って五重塔を建てたのではないかと考えていた。
しかし、妙見菩薩(北斗七星)を信仰していたということや出羽・陸奥への想いから将門の意思で将門を慕う人々によって五重塔が建てられたとも考えられるとも思った。

 実際に将門が建てるために出羽の国に来ていたかどうかはわからなくとも、将門は五重の塔を建てたと言い伝えられ尊敬され大切にされてきたということは間違いない。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年05月16日 13時50分53秒
[読書本(Book) ] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.
X