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カテゴリ:古代史 <出羽の国>と<日本>
田夷置井出公砦麻呂(アザマロ)らが移り住んだと考えられる上毛野緑野を探しに群馬県藤岡市を訪ねた。神流川を挟んでとなりが埼玉県となる県境の市だ。まずは、当時、緑野の郡(こおり)にあったとされる“浄法寺”を訪ねた。 前出の本によれば“この地の緑野寺(浄法寺)は、平安時代前期に都にはなかったすぐれた 一切経を持っていた寺として名高いし、最澄もこの寺を訪れ関東布教の拠点にしようとした。・・・”という。 ← 「寺教野緑」と読める。 立派な門で雰囲気があり(徳川の家紋が瓦にあるので江戸時代のものか)、石段などに当時の隆盛が偲ばれる。お堂の中には入っていないので内部は不明。
少し脱線をするが、この本郷から東へ3kmほど行った、神流川をはさんだ西側向いに"元阿保"という地名を見つけた。ここは阿保氏の本貫地(武蔵国賀美郡安保郷)で阿保氏居城があった場所のようで、“安保(あぼ)氏(字は違うが同じ)”といえば、余目(庄内町)の乗慶寺に供養塔がある。(ちなみに阿保、安保はアホでもアンポでもなく、アホ゛。) 余目(庄内町)の阿保氏は、ここの出身といわれているので、砦麻呂(アザマロ)や他のエミシの子孫の内、阿保氏といっしょに出羽に戻ってきた人もいた可能性があるのでは・・・と想像が膨らむ。 残念ながら、古代史から外れていくのでこれ以上は断念。 砦麻呂(アザマロ)や阿保氏、思いのほか、出羽の国と歴史的関係がある地域だと思った。 さて、緑埜である。
先ほどの本郷から西へ5km、浄法寺からは西北へ6~7km交差点近くで“緑野”という看板を見つけた。緑野の“野”が“埜”になっているが、間違いないだろう。“ミドリノ”かと思ったら“ミドノ”と読むのだそうだ。元々は"御殿(みどの)"だったのだろうか、大きな屋敷か城などがあり、位の高そうな人が住んでいた感じのする響きがある。上毛野緑野郡は、想像していたより広かった。 平井小学校前、東側(鮎川方面)を望む。写真に写っていない反対側の背後が民家が並ぶ区域。 通りすがりに近くの畑に目をやると、道と畑の間に、桑の木が植えてあった。世界遺産の富岡製糸場関連の遺跡(高山社跡)にも近い。さすが養蚕が盛んな地域だなあと関心させられた。古くから織物が盛んで絹により栄えた地域である。 また、下仁田ネギなのだろうか、深谷ネギなのだろうか?一般的なネギより太いネギが植えられていた。ネギで有名な産地の中間に位置しているから、味に間違いはなさそう。 古くからある日本の風景が残っている、不思議と出羽の国の風景など似た雰囲気のする場所でもあった。 古代、この毛野国に住む人たちも(おそらく)同じ“エミシ(毛人)”と呼ばれていた人たちだった。そこへ蝦夷や蝦狄、尾張、新羅などからの渡来人も入ってきた。そんな歴史が想像できる。 “NHKの花燃ゆ紀行”によると上州は人心が荒いといわれた土地になのだそうだが、いろんな国の人たちが集まったという歴史的背景が影響しているのかもしれないとも思った。 (ちなみにWIKIによると 関孝和(微分積分学で有名)や堀越二郎(ゼロ戦設計者で有名)が藤岡市出身) 砦麻呂(アザマロ)らはどこに住んでいたのか?不明だがこれと近い風景を見ていたのだろう・・・と想像した。
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最終更新日
2022年03月29日 21時27分58秒
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