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テーマ:本日の1冊(3697)
カテゴリ:幕末の歴史 清河八郎と庄内藩
学校で習うは歴史は、特に高学年になればなるほどストーリー性がなくなり事実や事柄が並べらるだけにあり味気なくよそよそしい。日本史や世界史の教科書で習うその内容はすべてが当時の主流のものだったわけではなく、後世の人々がその価値観で重要度などで評価付けなどをしたものが少なくない。教科書の歴史は有力だった国などの流れから見る視点のひとつであるが、そこに住む人々にはその時々の事情があり、限られたある地域の出来事とその出来事に対する評価とが人や場所によって違うこともよくある。この本は現在の大都市とは言え東京都ローカルの歴史(県史)が主体で、幕末に関しては江戸幕府や江戸庶民の視点での内容が多く書かれている。別の角度や視点から見た幕末の歴史、清河八郎と庄内藩を知ることができる。以下、「 」で内容を抜粋したい。
「また、攘夷を実行しようとする浪士たちによる「異人斬り」といわれる、外国人の殺傷事件も頻発した。万延元年12月にアメリカ公使館員ヒュースケンが薩摩藩士に殺害され、文久2年8月には、生麦村で薩摩藩士がイギリス人に重傷を負わせる生麦事件が起き、同年12月には長州藩士高杉晋作らが竣工間近の品川御殿山のイギリス公使館を襲撃して焼き払うなどの事件が起きた。一方で、外国人の中には、日本の風俗・習慣を理解せず、市中・近郊で猟銃を発砲するなどの横暴な行為をするものもあり、町民のあいだにも悪感情が強まり、外国人への悪口や投石がしばしばみられた。」 ヒュースケンを殺害した薩摩藩士とは、虎尾(こび)の会(尊王攘夷党)、伊牟田尚平、樋渡八兵衛、神田橋直助のことだ。資料はないがこの事件が八郎によって指示されたと考える人もいるようだ。虎尾の会は秘密結社だったためか、浪士組として記載されているものもある。 ヒュースケンはアメリカに帰化したオランダ人で日本びいきだったとも言われる。西欧列強の植民地獲得競争で多くの戦争があり、西洋と東洋の文化が衝突して価値観が入り乱れた幕末、誤解により生じた事件も少なくなかったのではないかと思う。 高杉晋作は剣術は柳生新陰流、勉学にも秀でた人で吉田松陰門下の松下村塾のイメージが強いが江戸で八郎も学んだ見山楼(安積艮斎の塾)や昌平坂学問所でも学んだ。また、江戸では江戸3大道場の新道無念流の練兵館で学んだ。長州藩は水戸藩とのつながりも強くこのように桂小五郎など江戸に留学して学んだ人も少なからずいたようだ。 「文久年間になっても物価は上昇し続けた。このため日本橋を始め市中各所に、浪士によって張札(幕府役人や商人たちに天誅を加えるというもの)が張り出された。・・・文久3年には、前年の生麦事件の処理が紛糾したため臨戦態勢がとられ、江戸では老幼女子や病人を近郊に疎開させるため混乱し、物価はさらに上昇した。・・・ 浪人たちは張札と並行して、攘夷を理由に貿易商を始めとする商人から金銀を強奪同様に借用し、殺傷、放火などをたびたび行なった。富商から金銭を強奪したものの中には、浪士をかたる浪人・下級幕臣などもいた。不景気の慢性化により押し込み強盗なども増加し続けていた。また、文久2年に旗本。御家人の知行所から農民を徴発して歩兵組が組織され、翌3年に西の丸下・田安門外・大手前・小川町の4か所の屯所に5000人ずつ配置された。この歩兵が集団で市中を横行し、盛り場などで乱暴をはたらき、治安をさらに悪化させていた。武装した浪士らの集団行動に対して、町奉行所の警察力は無力であった。そのため、商家のなかには、鳶を定雇にして昼夜店の張り番をさせるものもいた。 このような市中の極端な治安の悪化に対して、幕府は文久元年正月に外国人警備のため外国御用出役(しゅつやく/のち別手組)を設け、翌2年12月には浪士を組織して浪士組を結成し治安にあたらせた。文久3年4月には浪士組を再結成して新徴組とし、庄内藩主酒井忠篤(ただあつ)に付属させ市中警備にあたらせるなどした。」 八郎の名前こそ出てこないが浪士組の結成のいわれが出てくる。"生麦事件の処理が紛糾したため臨戦態勢がとられた時期"というのは、八郎たち浪士組が京都から江戸に戻ってきて、攘夷の期待のために江戸市民に熱狂で迎えられた時期のことだ。国際的にもイギリスと日本(幕府)との戦争の緊張が最高潮に達していたと考えられている時期だった。 (リンク参照「横浜での攘夷計画と八郎の最期 「出羽庄内 幕末のジレンマ.23 (清河八郎 編)」」 八郎たち浪士組は攘夷、イギリスとの戦争に備えて江戸に戻ってきたのだった。浪士組は京都に行った234人だけでなくその後も江戸で募集は続けられていたようだ。 文久3年4月に浪士組が再編成されたというのは、八郎が暗殺されたことによる。もともと幕府の浪士組結成への期待というのは建前上の攘夷や将軍の警護というものだけでなく、江戸の治安という意味もあった。この時、庄内藩は江戸市中取締役を命じられ、浪士組は新徴組と名前を変え庄内藩に付属された。庄内藩新徴組は治安を守るため市中の警備で活躍をして、「おまわりさん」という親しみやすい警察官の語源にもなった。「大勢での大店や芝居小屋での無銭飲食などの狼藉」や「泣く子も黙る」「かたばみ(酒井家家紋)はうわばみ(大酒飲み)より怖い」という(江戸っ子らしいジョークも含まれている)少しいただけないマイナスのこともあったが、治安を守るという権力的な仕事の固い言葉と正反対のニックネームを得られたというのは江戸市中の人々の強い信頼を得たことを意味していて新徴組の悲しい歴史もあった中で庄内藩の歴史の中でも総じて良い出来事の1つだったのではないかと思う。 「大政奉還が江戸に伝えられると、江戸は騒然となった。江戸の混乱は11月ごろからしだいいにひどくなり、辻斬りや強盗などが多くなり12月にはいるといっそうきびしくなった。そして、盛り場でも人通りがたえるほどで・・・当時江戸では、強盗は薩摩藩邸の浪士のしわざと考えられていた。すべてではないにしても、慶喜の大政奉還により、戦争の口実を失った薩摩藩が、江戸や関東で騒乱をおこさせるため、浪士に活動させていた。12月には市中取り締まりにあたる庄内藩兵の赤羽屯所へ多数の銃弾がうちこまれた。犯人は薩摩藩邸に逃げ込んだと報告された。その翌日にも三田の屯所に銃弾が撃ち込まれ、宿の主人と召仕が即死した。そこで、庄内・出羽松山・上ノ山・岩槻・鯖江・前橋・西尾の諸藩と陸軍方の2000人余の軍勢で、三田の薩摩藩・佐土原藩両藩邸を包囲し、庄内藩屯所発砲犯人の引渡しを要求したが、交渉がはかどらないまま、庄内藩兵の発砲から、包囲軍はいっせいに砲撃を加えた。薩摩藩側の死者は49人にのぼり、江戸ではじめての戦火となった。両藩邸は焼失し、死者はいづれも強盗をしたものたちで、多額の金を所持していた。戦火の翌日から窮民たちがここに集まり、焼残りの土蔵などを打ちこわして、米銭を始めすべての物を運びさった。役人たちが制しても聞きいれず、7、8日のうちに焼釘まですっかり拾っていった。」 いわゆる薩摩藩邸焼討ち事件のことだ、薩摩藩邸を囲んだのは1000人という資料もあるが、庄内藩以外も含めた総勢なのだろう2000人という内容からもより大規模な市街戦争だった。書かれているこの逸話は当時の様子がリアルに伝わる。戦争は両者の犠牲者の悲しい歴史でもある。 (過去のブログ参照)↓ 1. 戊辰戦争の発端、江戸での市中騒擾作戦と薩摩藩邸焼打事件 「出羽庄内 幕末のジレンマ.27 (戊辰戦争 編)」 2. 薩摩藩邸焼討ち事件 「青天を衝け(22話)」NHK大河ドラマ 「徳川慶喜が上野の寛永寺に謹慎したときに、一橋家の家臣らは渋沢成一郎(喜作)・天野八郎を中心に尊王恭順有志会を結成し、慶喜の警護にあたった。これへの参加者が増加し、初め浅草本願寺、のちに上野を本拠とする彰義隊へと発展し、旧幕府精鋭隊とともに上野の警護にあたった。」 この後、江戸では彰義隊2、3000人と官軍1万5000余人との上野戦争があり、寛永寺の諸堂も大半が焼失した。江戸市中では、進駐してきた官軍兵に対して反感をもつものが多く、心情的には彰義隊を応援していたため、江戸市民のなかには、彰義隊士の逃亡を手助けするものも少なくなかった。江戸も大政奉還後の無用な戦争が繰り広げられた場所の一つだった。 一橋家と江戸の庄内藩邸の場所はともに神田橋のすぐ近く、上野寛永寺への御成街道を挟んで向かい隣にあった。庶民風に言えばお隣さん(一橋家からは裏側)で、大河ドラマで慶喜が「何があっても耐えろと申したのに」というセリフがあったが、それはまんざらドラマ(フィクション)のセリフでもないように思えた。清河八郎、庄内藩、案外狭い範囲でいろいろなことが起こった歴史の一場面だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年01月09日 15時11分45秒
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