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カテゴリ:幕末の歴史 清河八郎と庄内藩
東京都千代田区の幕末、清河八郎に関係ある史跡、特に清河塾の跡地を中心に探索した。
出発は東京駅、不慣れな都会の街歩きのため無難に東京駅から出発して東北の玄関口といわれた上野方面に向かう。実は東京駅から進む道のそれぞれのビルにはおしゃれなカフェなどがある地下街が数多くあるようなのだが今回は目もくれずに江戸時代の距離感を大切にして地上だけを歩くことにした。 1. 東京駅(千代田区丸の内1丁目9、丸の内駅前広場) 東京駅の丸の内側、日本のオフィス街として有名な丸の内だが、休日だからなのだろうか、地上だからなのだろうか、あまりビジネスパーソンという感じの人が少なく観光の人々か多いような気がした。天気がよかったこともあり東京駅の復元工事が終わってきれいになった駅舎をバックにカメラマンから写真をとってもらっているウエディング姿のカップルを見かけた。現在は東京駅前も観光スポットになっている。 <写真:東京駅丸の内口(クリック拡大)> ↓(徒歩) 2. 江戸城(皇居)大手門(千代田1丁目1) 大手町は丸の内と同様、内堀の中の街で昔は武家屋敷(大名屋敷)が立ち並んでいた。明治以後、金融関係の会社のビルが立ち並ぶ。大手町と丸の内の違いは内堀の中、今は埋め立てられているが家康の命によりつくられかつてあった‟道三堀"という堀を境にして北側を大手町、南側を丸の内というのだそうだ。大手町というと地下鉄の駅が集中するイメージでその駅どおしは少し離れてはいるものの実際5つもの路線(丸の内、東西、千代田、半蔵門、三田)がある。 <写真:大手門、写真の右側が北側(クリック拡大)> <写真:大手町の交差点(クリック拡大)> ↓(徒歩) 3. 江戸庄内藩上屋敷跡(大手町1丁目9、現大手町フィナンシャルシティ) 酒井家神田橋上屋敷と言われた庄内藩の上屋敷は大手町にある。江戸城からは大手門を出てすぐに左(2つ目の信号)に曲がると北へ向かう御成道(現在の日比谷通りと本郷通り)となるが、その道の外堀にかかる神田橋の右手前に庄内藩上江戸屋敷はあった。後述するように、江戸城内のためかあまり広くはなかったが重要な場所にあった。現在は超高層ビルが建ち並ぶ金融関係の会社が集まるビルの一角になっている。平成の再開発前、2003年頃の古い地図には公庫ビルや経団連会館、日経新聞などがあった。 <写真:庄内藩神田橋上屋敷跡の標識(クリック拡大)> <写真:神田橋付近の庄内藩藩邸側の石垣(クリック拡大)> 庄内藩の標識は「大手町フィナンシャルシティ」 という複数ある大きなビルの内ノースタワーというビルの敷地の一角、設備の一画のような目立たない場所にあった。少しひかえめな感じの表示だが東京の超一等地なのであるだけありがたいような気がした。すぐ前の首都高高架下の神田橋の降り口も藩邸跡に近く、神田橋門の当時のままの石垣が覗ける。 ↓(徒歩) 4. 神田橋(神田橋門跡) 御成道(現在の日比谷通りと本郷通り)の外堀(旧平川/日本橋川)にかかる橋。御成(おなり)道とは将軍が菩提寺の一つである上野の寛永寺へ参詣する道で江戸城を守る内郭門の一つだった。神田橋というので神田川の上にかかっているのかと思うが日本橋川に架かる橋だ。神田というこの地区の代表する地名がついた橋なので重要な橋だったことが想像できる。 神田橋には神田橋門があり、「鉄砲10挺、弓5張、長柄槍10筋、持筒2挺、持弓1組が常備され、外様大名で7万石以上の者、または国持大名の分家筋で3万石以上の者のみが警護を担当した。」(東京の散歩道)という警備の厳重な場所だった。この門に隣接して庄内藩江戸屋敷はあった。今も首都高から東京の中心部に入る要所だ。感じからして神田橋ICの出口あたりも庄内藩藩邸の一部だっただろう。 内堀と外堀はつながっていないが、一番近い場がある。北の丸の内堀の東端にある御春屋(おつきや/雉子橋あたり)でそれと一橋家屋敷が外堀の起点になっていて、外堀はロール(渦巻)状に郊外に延びる。 (※詳細はリンク「清河塾の変遷②③④ 清河八郎(斎藤正明)1856-1861」参照)一橋家屋敷は細い敷地で神田橋門に隣接する。庄内藩は一橋家とは御成道(現在の日比谷通りと本郷通り)の道の向かいのお隣さんだった。激動の幕末、慶喜がいた場所がすぐ近くだったとはとても驚きだ。 <写真:神田橋周辺(内神田1丁目の説明版(クリック拡大))> 左下に明治30年頃の写真がある、石垣の高さが印象的だ。 ↓(徒歩) 5. 清川塾1(1855年)(三河町2丁目新道/現内神田1丁目) 三河町2丁目は庄内藩邸の堀の北側、神田橋から直線で2~300mの距離にある。古い神田橋の写真と三河町2丁目の位置が"内神田1丁目の説明板"にあった。三河町2丁目は静かな日には庄内藩の敷地の声が聞こえてきそうな近い場所にあった。 <写真:三河町2丁目新道付近の小路(クリック拡大)> 前項の内神田1丁目の説明板も参照。 (※詳細は「清河塾①の変遷 清河八郎(斎藤正明)1855-1856」リンク参照) ↓(徒歩) 6. 清河塾3(1857年)(淡路坂/神田駿河台4丁目あたり) JR お茶の水駅の前で、日大、明大などの大学にも近い。現在も学生は多い。 <写真:淡路坂(クリック拡大)> (※詳細はリンク「清河塾の変遷②③④ 清河八郎(斎藤正明)1856-1861」参照) ↓(徒歩) (7. 安積艮斎塾跡(八郎の学んだ場所/神田小川町3丁目から駿河台1丁目あたり) (※詳細は「清河八郎(斎藤正明)の全国での勉学、修行の軌跡(3)」参照) ↓(徒歩) (8. 湯島聖堂(八郎の学んだ場所/文京区湯島1丁目4-25)) <写真:湯島聖堂の前の相生坂(クリック拡大)> 元は相生坂といわれたが後に東側の昌平坂とともに昌平坂とも言われる。 ↓(徒歩) 9. 清河塾4(1858年)(お玉が池/千代田区岩本町2丁目あたり) お玉が池は八郎が学んだ遥池塾と玄武館があった場所だ。この近くに3度目の清河塾を開くのには何か理由があったはずだ。清河塾の場所の詳細は不明。 <写真:お玉が池通り看板(クリック拡大)> 現千代田区岩本町2丁目あたり (※今回に記載はないが大川周明の「清河八郎」によると2度目に薬研掘(中央区東日本橋)に開塾していた。) 東京にある地名は徳川家康が江戸に来た後の城下町のため自然の地形を由来するものだけでなく、人が移住してきてできた人々の出身地や職業などに由来するものが多く活気ある町の香りがする。 小学校で県史、町史を習ってから歴史に興味がわき、東京の地名の知り始めは成沢先生の「清河八郎」の本に出てくる地名だったように思える。自分にはまったく馴染みのない物語のような世界だったが、大きくなるにつれテレビやラジオを通して無意識に耳に入る東京の地名が増えていった。 子供の昔には東京は戦後の闇市のような人が集まるカオスのような場所、なぜか人売りなどの恐ろしいイメージが残る大都会だったが、今では世界一安全な都市とも言われたりする都市のイメージにもなる。戦後は村社会を大きくしたような都市、の例えをされたりスパイ天国と言われたりしてきたが、映画の男はつらいよで有名な下町人情のような葛飾のような場所もある。バブル期の土地買収やその後の都市の再開発都会があっても、古い江戸っ子と言われるイメージのもある場所だ。 町や学校の中では偉人として有名な清河八郎先生。山形からはるか遠い江戸(東京)で活躍したのだが、なんとなく成沢先生の本に出てくる江戸の地名を改めて辿ってみたくなった。そして、清河はどんなところに住み活動していたのか、東京観光を兼ねて清河八郎の伝記に出てくる地名や清河塾の地名などを頼りに順番に辿った。 清河塾の位置をみると開かれた順番に庄内藩邸から少しづつ離れていく。それは八郎の庄内藩からの独立心の現れ、庄内藩との心の距離でもあるようでいて面白い。清河塾があった詳細な場所は不明だが新資料の発見や研究が進んで具体的な場所がわかる日がいつか来るかもしれない。今回巡った場所の距離は直線で1km内に位置する。歩くだけなら1、2時間で到着できる生活圏の範囲、距離だ。小学生のときには遥か遠い異国のような場所の東京だったが、大人になると大都会の都市の中の歴史など興味をそそられる。活気あり華やかに見える大都会、ひっそりとたたずむ歴史の遺産が数多くあった。 ↓藤沢周平の「回天の門」、この小説の舞台としても出てくる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年08月01日 20時41分58秒
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