川柳が上手くなるには
川柳というものを単なる滑稽な俳句や、ふざけた十七音と見る向きも多い。 実際に、NHK高校講座の国語の先生が放送の中で「俳句は下手をすると川柳になってしまう」という言葉があった。私は、その先生の名前を今も忘れられない。国語という文芸を扱う教師の身でありながら、全国放送でこんなことを言われたのでは、川柳家の私として耐えられない思いがした。 川柳は、同じ十七音でも、俳句のように花鳥風月という自然を通して人間を見つめる詩ではなく、人事を通じて直接ニンゲンを見詰める詩である。 だから、視点が違うのであって、表面的なコトバのおふざけが川柳ということではない。 詳細については、<ドクター川柳>のホームページを見ていただきたい。 川柳の面白さは、表面的コトバで笑わすものではない。 コトバとコトバの間に働く矛盾、アイロニーが文芸性の元を形成している。 したがって、いい川柳作品を作ろうとするならば、人間の行為の中から、おおいなる矛盾点を探し出して一句にまとめることがたいせつである。 本降りになって出て行く雨宿り これは、パラパラと降り始めたときには「濡れまい」として軒下に身を寄せ雨を避けたのに、いよいよ雨が本降りとなると、あきらめて濡れながら出て行くという矛盾をついたもの。 政治家は落語家よりも笑わせる 幻道 これも、本来笑いを職業とする落語家より、さまざまな政治事件によって笑いの種となる政治家のほうが笑えるという矛盾。 いくらでも世の中には変なことが目に付く。 これを句にすることが、川柳の目のひとつであるといえる。