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カテゴリ:こころ
私には感謝の気持ちが足りなかった、と先日書いた。
この前シャングリラを観に行った時、あまりの素晴らしい舞台に感動しまくっていた私の心境は、一言で言うと「感謝」だった。全身鳥肌でダーダー涙を流しつつ、あー来てくれてありがとう、歌ってくれて踊ってくれてありがとう、いてくれてありがとう、という気持ち。舞台で演じている人たちみんなに何でもしてあげたいような気持ちなんだけど、私ができることは精一杯の拍手ぐらいしかない。 今まで私にとって「感謝」という言葉はさほど魅力的なものではなかった。そりゃもちろん、日常のあちこちで感謝する場面はある。何かしてもらって「わー嬉しい!ありがと~!」ってことは、まあ普通によくあるよね。でも今思えば、あんまり深い気持ちじゃなかったんだな。嬉しいことしてもらったから、礼儀としてお礼を言っておこうってだけで、気持ちとしては「わ~いやった~」だけに近い。相手に返す部分は、わりとハートじゃなくて頭でやってるのよね。 が、シャングリラの時の感謝は、何だか深かった。ベースは感動なので、これもまず「自分が嬉しい」。だけど、嬉しくて嬉しくて、あんまり嬉しくて、その嬉しい自分が消えてしまう感じ。我が消えるというか。自分の持てるもの全てを捧げてもいいような。 あーこういうことって、言葉で説明するの難しいね。でも書いておきたかったんだ。 今まで私、「自分が楽しく生きる」ことだけが、世界に貢献するたった一つの方法だと思っていた。わりとモットーに近い考え。他人のために自分を犠牲にすることが、実はどんなに他人を傷つけるか、そういう嫌な実例をよく目にしてきたから。まず自分が幸せでなくちゃいけない、他人のためにどうこうなんて言い訳しちゃいけない、と思ってきた。 でも何だかなー、一段深いところを初めて垣間見た感じ。そうか、あまりに幸せだと、自分って消えちゃうんだーっていう。で、本当に相手のために全てを明け渡したくなる。それは全く犠牲じゃなくて、あーこれが本当の、純粋な感謝っていうものだったのかーって。 こうやって言葉に変換(かなり無理やりだ)したのは今が初めてだけど・・・シャングリラを観た後の私は、何かが変わってた。で、翌日かな、電車の中で「ハッそうか、今まで私に足りなかったのは、これか!」って。ひらめいたわけ。 実は、5~6年前かな、イギリスに行ってた時に、不思議な現象が起きたことがある。「何かの拍子にハートチャクラ全開!?」事件だ。朝、宿のベッドの中で音楽を聴いていたら、突然ハートのあたりがですね、ブワァァァ~と大変なことになって(すみません、言葉で説明する能力が・・・)もういきなり、想像もつかないような至福の中にいたの。それまでもしょっちゅう聴いてて、今でもよく聴く音楽なので、何がどうなってそんなことが起きたのか、今でも分からないんだけど。とにかく突然幸せになっちゃって、理由もないのに嬉しくて嬉しくて仕方なく、もう誰を見ても何を見ても、道端のゴミ一つだって愛しくてたまらないわけですよ。ああ嬉しい、嬉しい、幸せだなー、この幸せをどうやってみんなに分けよう、と思っても、分けようがなくて苦しいぐらいなの。 その妙な至福フェスティバルは2週間だったかそれぐらい続き、日本に帰国した途端に終わってしまったのだけど。私にとってあれは想像しうる最大級の幸せで、いつかまたあんな気持ちが味わえたらいいなーとずっと思っていた。でもさ、分かんないじゃん、どうやったらああなれるのかなんて。勝手に始まって勝手に終わったんだもん。私はほんとになんにもしてない。 でね、シャングリラで味わった気持ちも、これに近かった。幸せで幸せで、どうしたらいいんだろう、あーありがとうという気持ち。私はちょっとね、今回フォーカスする場所を変えましたですよ。 今まで「自分が幸せ」の方しか見ていなかった。「分けたい、与えたい、ありがとう」の気持ちはただのオマケで、幸せになれなきゃそんな気持ちになれないじゃん、と思っていた。・・・でも違うんじゃない?もしかして? 自分の幸せをガツガツ追い求める前に「感謝が先」でもいいんじゃない?むしろその方が簡単だったりするかもよ?と思ったわけ。で、試しに電車の中でね、周りの乗客ひとりひとりの顔を見ながら心の中で「ありがとう、ありがとう」と唱え続けてみたわけですよ。(あーあー、どうしようもなく怪しいですなー) ・・・すると!!自然と幸せな気持ちになっちゃうんですよ。この人たちみんな、今日一日幸せだといいなーって自然にあったかい気持ちになるの。 これまた精神世界ではよく出てくる「ありがとうありがとうと唱え続ける」ことの威力を、私はこの時初めて実感したのでした。 ありがとうは、自分が嬉しい時に出る言葉。でも自分が嬉しくなるのを待つんじゃなくて、まず何もなくても「ありがとう」の気持ちを持ってみる。すると自然に嬉しくなってくる。そしたらきっと、嬉しい人の周りには、嬉しいことしか寄ってこないでしょ?(たぶんね) あー今まで何年も、あの棚ボタな幸福感がまたボタッと落ちてくるのを待ってて非常にバカだった、と思いました。始めようと思えばいつでも始められることだったんじゃんって。 それからずっと、ヒマな時、忙しく手を動かしてる時、とにかく頭の中が空いてる時はなるべく「ありがとうありがとう」と思いながら過ごしてます。まず、余計なこと考えなくて済むからいいよね。そして自分がとっても柔らかくなる。自分が自分が、という気持ちがなくなるのです。自然と笑顔になるし。 私がどうしてこんな感謝知らずの貧しい心に育っちゃったか、それは多分、いろいろあって、傷つくまいと心を守るために「自分が!自分が!」と一生懸命頑張ってたんだろうね。私なりの自衛手段だったんだと思う。でもその壁が、幸せを感じられない心と体を作ってた、と今は思う。だから鬱だったんだね。恐怖から身を守ると同時に、幸せも受け付けない壁を、自分で築いてしまった。 最近参っちゃってる人、とてもじゃないけどありがとうなんて言える心境じゃない人ほど、超むりやりでもいいから「ありがとう」言ってみてください、誰に対してでもなく、自分ひとりしかいない時にでも、心の中でブツブツと。なんかねー、自然と楽になってくるよ。ほんとほんと。言ってるうちに、無理やりだったはずが、本当にありがたい気持ちになってくるの。顔も体もゆるんで、ほわほわってなるよ。 何だかね、独りよがりの「幸せ」より、「感謝」の方が、何て言うのかなー。波動が高い!?そんな感じ。そこには自分の幸せも含まれてて、でも自分だけじゃないの、もう、与えることが嬉しいの。今までの私にとって、残念、与えることは奪われることでしかなかった。 なんか、これが分かったらもう大丈夫って思った理由、伝わったかなー。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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