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カテゴリ:こころ
この前、突発的に鬱に陥った私。
何か具体的に理由があって、とかいうのではなく ただひたすら意味もなく重苦しい、辛い気分にどんどん呑み込まれていた。 (「きっかけ」は明らかに水疱瘡での篭城だったと思うけど) その時私の望みはただ「平和な気分になりたい」それだけ。 これじゃ脱出できないのよー。 だってそれって「重苦しい気分から逃げたい」だけだもん。 結局フォーカスしてる所は「重苦しい気分」なんだよね。 私が過食を脱出できなかったのも、最初の数年はこれと同じパターンだった。 「過食を治したい」と、結局ずっと過食にフォーカスしちゃってたからなんだよね・・・。 そうじゃなくて、それとは関係なしに私は何がしたいのか、 という所にフォーカスを切り替えて、それでもすぐには答えが出なかった。 何年も「したいことが分からない」期間を経て、やっと答えが出て、治った。 長かった・・・。 で、今回も同じように 鬱とか平和とか関係なく、それは置いといて! 「私、何がしたいかなー」「何をしたら楽しいかな」というのを考えたんだけど 鬱すぎて何も案が出ないわけ。 何をしても楽しそうに思えないし、心地よさそうに思えない。 困った。 そんな中、脱出のきっかけになったのは何か、というと。 「この鬱状態によって得られたものは何だろう?」と考えたことだった。 そしたら先日書いた「鬱状態の人がどんな風に声をかけて欲しいか、改めて実感した」 というのが出てきたわけなんだけど。 実際、考えがそこに至った時点で、パキッとスイッチが切り替わった感じで ほとんど一瞬にして鬱状態は終了したのだった。 ここからは、分からないけど、仮説ね。 鬱状態から脱出したい、平和な気分になりたいと思っている時、 私は鬱状態を「否定」している。 嫌だ嫌だ、そこから出たい、と思っている。 ところが頭の中で自分に「鬱状態から得られたものは?」と質問した瞬間、 私は鬱状態を、肯定してるよねー! 全面的にではないにしても、意味のあるものとして捉えた。 その瞬間なんだよね、本当にパーッと霧が晴れたの。 何だか今は急いで書いてるので、うまくまとめられないけど これまで何度も書いてきた、嫌なことから「逃げない」「受け容れる」 というやつの、バリエーションかもしれない、これ。 何がしたいのかすら思い浮かばなくなっちゃってる時、 今ある問題そのものを肯定的に捉える質問を自分にする、って使える手かもしれない。 肯定的に捉える、ちゅーても「ありがとうありがとう!」みたいな曖昧なのじゃなく (だって全然ありがたくないもんねぇ) ちゃんと「答えが出る」「質問」をするのがポイントかも、と思った。 質問するってことはさ、強力にフォーカスすることになるんだよね、答えに。 曖昧な「気分」とかじゃなくて、はっきりと何かを探そうとして頭を動かす。 確かに意味のあるものを探そうとする。 その動きが重要なんじゃないかなー。 それで答えが出て「そうか」と納得して、初めて「ありがたい」気分にもなれるよね。 具体的に意味のあるものを見つけもせず、曖昧に「肯定しよう」「受け容れよう」は ちょっと無理があるんだよ、多分。 あー、この話は今度もっと掘り下げてみるかも。 とりあえず今、思い浮かぶままに書いてみましたデス。 しかしアレだ、私みたいなめんどくさい頭と心を持ってると 同じようなめんどくさいタイプの人のお役に立てそうでアレですな!おほ! きっと生まれつき朗らか~な感じの人には、私が何を言ってるのかすら、ほとんど分からないに違いない・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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