晴耕雨読「寄生性と知的謀略」を読んで印象に残ったことがある。
輸出万歳になると共同体の利益はないがしろにされて、共同体の成員はいつしか生産に従事させるだけの手段に堕してしまうようになるという趣旨の一節がそれだ。
全体の論旨もなかなか面白いものがあるが、この一節は、なるほど輸出中心で、あくせくするばかりで、ゆとりある生活なんて結局訪れなかった日本の不幸を言い当てている。
いまや労働の現場は混乱の極みである。
輸出中心の財界のいう通りにすると共同体はどうなるのか。彼らは利潤を追求するが、家族や地域といった共同体の利益なんて一顧だにしない。彼らにとっては輸出の手段として労働者がある。
もともと関心の中心にあるのは共同体ではない。あるとしても先に来るのは輸出だ。いかに効果的に労働力を投入するか。もはや共同体には労働力商品を介した二次的な位置づけしか与えられない。
輸出は輸入国の幸せに化ける。
そもそもなんのための輸出しなきゃならないのだ。外貨獲得か。円暴落の防波堤か。そんなマクロのことは知らない。貿易黒字が米国に還流して、米国の消費を支えてきた。いままでは。働いて金を稼ぐことは無条件に善だと言い切れるか。
生産なんてつまらない。消費こそ幸せの源泉だ。金利=悪というムスリム的倫理もいい。こう考えることだってできる。
われわれに求められているのは逆転の発想かもしれない。