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ゲゼル研究会に突き当たった。<利子システム=地球環境の問題>への手がかりは意外と身近なところにある。
地域通貨だ。 ところが、直感では、これは生産者に都合がいい通貨のような気がする。消費者中心の視点で工夫すればもっといい結果が出るような気がする。 マイナス利子は少し乱暴やね。あれが成功したのは、大恐慌という混乱の中で生活防衛の必要性があったからで、地域通貨流通の十分条件は別のところにあるに違いない。あくまで直感だが…。 地域通貨の現状がぱっとしないように見えるのでこんなことをほざいている。実際のところはどうなのかわかりません。これから注意してウォッチして行きたいと思います。 以下、ゲゼル研究会のサイトをぶらぶらしていたら見つけた。結構面白いので引っ張ってみる。 地域通貨の輪にきてごらんよ ::森野 栄一 信用ってな~に 信用という言葉をよく使うよね。 信用という言葉でなにを意味してるか考え始めると、すぐ気づくのは、信頼に基づく何かだろうということ。何かを成し遂げることについてある人のもつ能力への信頼かな。彼はこれができるとぼくが信頼する、彼女も信頼する、誰もが信頼するというふうになれば彼の信用は万全というわけさ。そして彼そのものが信用のある人間となる。そこでは、彼の、まるごとが信用されるようになってるわけだよ。これをぼくらは実質的信用と呼んでいる。 信用はどこでも大切 ところで、信用って言葉は取引とか、経済にとっても重要なことだよね。 例えば銀行は商人が借り越すことを認める。銀行から見れば貸し越しさ。つまりある人間が口座に預金をもっている。そこにある金額以上を使うわけだ。これ、借り越し。余計に使った分は返さなきゃならない。これは別なふうにいえば銀行が信用を与えているというわけだけど、借り越した商人は、決められた日に、利息付きで借り越し分を返済するはずと、銀行は信じていること、信頼していることでもあるね。だから、ここでも信頼は信用の大事な本質なんだということがわかるだろ。 信用にはふたつある ところが信用には二種類あるんだ。いまいった実質的な信用と、もうひとつ、金融上の信用、金銭上の信用っていってもいいかな。 実質的な信用は、あるひとが、商品やサービスを求められる時に、求められる場所に提供できる能力を持っていると評価されていること。 このあるひとが製造業者だと思えば、よくわかるね、製造設備や、これまでの在庫をもっていて、商品を引き渡す能力があるって他のひとに信頼され、信用されてるってこと、これが実質的信用さ。その実際の能力が評価され、信用されてるわけ。 じゃあ、金融上の信用ってなにかというと、ことはお金に関係するんだ。あるひとが、求められるとき、求められる場所で、お金を提供できる能力が問題だということ。お金を出すひと、貸すひと、つまり銀行とかそのほかの資金供給者だけど、そういう人たちがある人についてお金について信頼し、信用していること。つまり、そのひとは実質的な信用をもっている、その信頼をお金で表現してるのが金融上の信用なわけ。これは同じみたいにみえるけど、実はものすごく違うことなんだ。 ふたつの信用の違い 例えばある製造業者がいる。その当人は仕事熱心でやる気もある。いい仕事をする。もちろん、そこで働いている職人も優秀だ。周りに人間もそのことをよく知っている。彼のところは間違いがないと誰でも信頼している。 ところで、その彼が銀行にいってお金を借りようとする。銀行は周りの人間と同じように彼を信頼してお金を貸してくれるかい? 実は銀行は別の信用の基準をもっているのさ。それが金銭上の信用。つまりその製造業者が製品を作るについてどれほど優秀で、世間の評価が高くてもそれだけじゃあ、カネは貸せないと考えるのさ。この製造業者が製品を作って、実際に売りに出して、そして、それが売れて、売上金を手に入れて、そうして銀行に借りたお金が返せるか、つまり、お金と引き替えに自分の商品やサービスを処分できる能力について銀行は判断を下すというわけ。要するにお金を絡ませて見た信用、お金を絡ませて他人が下している評価が金銭上の信用というわけ。 金銭上の信用の問題 これになんの不思議もないと思うかい? じゃあ、考えてみよう。 例えば、製造業者Aがいる。在庫があるからといって、これを保証に、銀行に貸し越しを頼むとする。銀行はAに貸し越しを認める前に、Aの在庫の市場価値を値踏みするんだ、そうしてある額の貸し越しを認めるんだけど、その額は値踏みした在庫の値打ち以上ではないよ。それ以下しか貸してくんないんだ。言い換えると貸し手は借り手の実質的信用を検討しているわけ。これが不十分だとお金の信用も不十分になるってこと。これは、当然のことと思うかも知れない。世の中ってそんなもんさ、と思うかもしれない。 でもそれだけじゃあないんだ。貸し手は借り手が需要がある在庫をたくさんもってるからといって、それだけで金を貸しはしないというとこが問題なんだ。借り手の在庫がちゃんと売れて、貸した金が返せるかどうか、それが信じられるときだけ金銭上の信用を与えるわけだから。つまり、ひとや事業の実質的信用が、いつもお金を絡めた次元からしか評価されてないことに加えて、製造業者がどれだけお金が稼げるかで判断されてるんだ。そこでは、必ず実質的信用は過小に評価されたうえに、金銭上の信用まで値踏みされるんだ。 ほんとの信用は分けられない でも考えてみると信用はひとつのものだよね。そのひとのまるごとの信用さ。ひとはそうして彼や彼女を信頼しているわけだ。しかし金貸しのやってることといったら、そういう丸ごとのひとの信頼を、実質的信用はカネのめがねでみてきりちじめる、金銭上の信用、つまりどれだけカネを手に入れることができるか、必要なときに、必要な場所に、カネをもってこれるかどうか、みている。要するに銀行が決めた日に、銀行のカウンターの前に、カネをもってこれるかどうか、そこに関心がある。 それはひとの本当の背の高さを、低く測るようなものなんじゃないかな。でもひとは、そういう流儀がふつうだと思わされている。彼女が彼を選ぶときに、必要なときに、必要な場所にお金をもってくる能力で彼を判断していないといえるかい。そういうことをしている彼女は銀行と同じように彼を判断している。本当は彼には、まるごとの彼そのものの価値があるんだ。実質的な価値が。しかし、銀行と同じように、彼の実質的な価値を見る場合も、それがお金を稼ぐに十分かどうかで判断してはいないかい。これは、彼が彼女を選ぶときにもいえることさ。本当は人間の信頼とか信用はそんなものじゃあないよね。そんなものにすぎなかったら、ぼくらの関わりはずいぶん寂しいものじゃないのかな。 金銭上の評価でひとを測るさびしさ ひとお金を稼ぐ能力で評価するということは、要するにこういうことなんだ。例えば一年間に、1250万円運んでくる男がいる。月に直してほぼ100万円だ。年利が5%とだとすると、2億5千万円を銀行に預けるかしておけば、1250万円が利息分で手に入る。じゃあ、その男の値打ちは2億5千万円ということだ。 でも2億5千万円で、その男が買えるかい?そんなことないだろう?その男の価値はもっとあるはずだ。ひとの命はかけがえのないものだとよくいうでしょ。そういうことをいう人たちが、実際の生活でひとを金銭上の信用で測っているのさ。 ひとが悪いわけじゃない それはそうするひとがいけないのかい。 了見が違ってるのかい。 心根が曲がってるのかい。 いーや、そうではないんだよ。いまのお金のシステムがいけないのさ。そのなかにいると、自然にひとは曲がってしまうんだ。 ローカル・マネーに参加してごらんよ。それがすぐわかる。そこでは、ひとは、まるごとの、生きた全体として信頼しあうことになるんだ、それが人間の自然ってものさ。 さあ、君も地域通貨の輪のなかにきてごらんよ。 (C) by Gesell Research Society Japan お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 16, 2007 12:00:11 AM
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