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カテゴリ:本
太田龍vsベンジャミン・フルフォードの対談「まもなく日本が世界を救います」(成甲書房)をほぼ読了。
ブログで言論が自由になったのを象徴するかのような書物だ。ネット時代にふさわしい、GHQプレス・コードと無縁の自由な言説が展開されていた。普段ネットで流通しているだけの「日陰の話」が単行本=メディアを通じて読めるのはある種感慨深いものがある。 フルフォード氏がジャーナリストであることがよくわかる対談だ。それにしてもフルフォード氏の義侠心にはひとを打つものがある。CFRやイルミナリティといった話がたくさん出てくるし、そういう話にある程度慣れていないとついていけないかもしれないが、一般のサラリーマンや主婦だって、この手の話はある程度知っておいた方がいい感じはする。ネット時代の教養として。 なお、途中で明治天皇替え玉説が出てきた。大室寅之祐でググると写真が出てきた。写真をリンクしておく。写真はここ。 以下、テキストも一部引用しておく。 「謎多き明治天皇」―明治天皇すり替え説― 孝明天皇の子どもである明治天皇は皇位継承の際、すり替えられたというのである。(詳しくは中丸薫さんの本を買って見ていただきたい) 天皇家は南北朝動乱の後、代々北朝の流れをくんでいた。そして、南朝は99代の後亀山天皇で絶えたとされており歴史上では滅亡したことになっている。 しかし実は、南朝である後醍醐天皇の玄孫の更に孫くらいに当たる人物に大室寅之祐という人物がおり、それを長州藩が育てており、伊藤博文、桂小五郎などが担ぎ上げて天皇のすり替えを行ったというのである。 孝明天皇は中山慶子の間に睦仁親王をもうけたが、睦仁親王は女官たちに囲まれて育ち神経がこまやかで気が弱かったとされている。 そして孝明天皇が崩御されると、睦仁親王は16歳で即位した。しかし即位した人物は、身長180センチ体重、90キロの巨漢で、側近と相撲を取り相手を投げ飛ばしていたと言われており、女官と遊んでいた人物とはかなり違っていたといわれている。 また、田中光顕伯爵は「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時にただちに即位したとなっているが、じつは、その睦仁親王は暗殺され、これにすり替わった明治天皇は、後醍醐天皇第11番目の息子、満良親王の御王孫で大室寅之祐である」と証言している。 また、「中山忠能日記」によれば、1867年7月8日「新帝は学問所で遊戯をして手に負傷した」とある。16歳にもなって女官達と遊ぶとは、あまりにも子ども過ぎて知能も遅れていたのではないか。日記には、このあと宮中に侍医が呼ばれたこと、慶子が武士を使って子どもほどもある仏像の包みを中山家に届けさせたことなどの不審な記述が載っている。 この仏像はたぶんに睦仁の亡骸ではないかと想像できる。睦仁は岩倉具視らによって買収された侍医の手で暗殺されたのではないだろうかと中丸薫さんは推測されている。 こうした一連の事情を考慮すると、大室寅之祐(明治天皇)は即位されるまでは比較的自由な身でありまた、長州に居たことで長州藩、薩摩藩の武士とも交流があったことが考えられ、大室寅之祐と明治維新に貢献した人達が一緒に写真に収まることが出来たのか理解できる気がする。 又政界の一部の圧迫を受けてこの写真の本当のことが発表されなかった理由も理解できる。(この写真は雑誌「太陽」に佐賀藩の学生達として紹介された) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
December 12, 2007 11:32:28 PM
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