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カテゴリ:メモ
人間というのは点と点が近くにあると結びつけてしまう。
推理小説を考えるといい。個々の事実は互いに無関係に見えるがフィルターを通して見ると結びついて見える。 これは推理小説というより、歴史というもの自体に内在する性質だ。歴史を編纂する側のフィルターを通して、点在する事実の群が相互に意味あるものとして編まれる。 点と点を結びつけるものは、時代精神であったり、経済システムや国家システムの消長であったり、技術革新を支えるもろもろのファクターであったりするのだろう。 あるいは夜空の星座のようにたまたま互いに近くに見えるだけであって、見る側が意味を感じるだけであることが極端にはっきりしている例もある。 星座の場合は、点と点をつなげるのはたまたま互いに近くにあって、神話的な位置関係をたまたま形作っていた。 個々の星の光年数はテンでバラバラだし、たまたま地球から見た位置関係がコンステレーションをなしている。 なのに見る側の人間は、線を引いて、できたかたまりに固有名詞を付与して、物語の舞台装置にしてしまったりする。 歴史的事実も同様で、人間というのはこういうものだから一群の事件を物語の舞台装置にしてしまう。 で、陰謀論も同じではないかというのが今日の結論。一群の事実を物語の舞台装置にしてしまう。 ただし、洗練された仮説ではなく、図式的で雑駁な感じのする、大胆で刺激の強い仮説だ。どんな仮説を立てるのも自由だが、最低限、反証可能性だけは残しておいてもらわないと議論の遡上にも乗らないワな。 反証可能性がキーワードだ。 こいつのない陰謀論は取り上げるに足りない仮説だ。放言に近い与太話だとか、悪意に満ちたプロパガンダだとかいったレッテルが貼られ、徹底的に無視される。 いいものを持っているんだけどね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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