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カテゴリ:生活
朝日新聞より、「永井路子さんが新作「岩倉具視」―構想40年「遺言のつもりで」」と題する記事。並んでいた吉田秀和の「中原中也の目」も面白かったが、永井路子の言葉を選ぶ。
なお「岩倉具視」は文芸春秋の新刊らしい。文春も朝日新聞も限界があるのは認めた上でつきあっていく。これがバランスというものだろう。 …80歳でも現役とか、達者な老人がもちあげられるけど、これこそ言葉の皮を剥くならば、よ。年金支給年齢がもっと高くなるような流れが出来かねない。元気じゃない多数派の悲しみに目を向けて欲しい…庶民の歴史は言葉に踊らされる、そのくり返しだった。だから言葉の皮を剥いてみよう、と。それがこの本に託した私の遺言… 次に「エンデの遺言―根源からお金を問うこと」(NHK出版)よりエンデの言葉を選ぶ。 …私が読んだあらゆる経済理論も、原料はそれが作業過程に入って初めて経済的要因とみなされます。換言すると、地中に眠る原油はまだ経済的要因とみなされないわけです。熱帯雨林は、それだけではまだ経済的要因ではありません。伐採され、製材されて初めて経済的要因となります。ここで問われるべきは、私たちはあたかも短期的利潤のために、おのれの畑を荒らし、土壌を不毛にしている農夫と同じことをしているのではないかということです。私たちは世界の自然資源が、資源の段階ですでに経済的要因であり、養い育てられなくてはならないことを学ばなくてはなりません。現在大きな利を得ているのは、非良心的な行動をする人たちで、件の農夫たちのように短期的利潤のために、土地を破壊するような行動が利を得るのです。四年に一度は畑を休ませ、化学肥料を使わず、自然の水利を使ってという責任感の強い農夫は経済的に不利になるのです。つまり、非良心的な行動が褒美を受け、良心的に行動すると経済的に破滅するのがいまの経済システムです。この経済システムは、それ自体が非倫理的です。私の考えでは、その原因は今日の貨幣、つまり好きなだけ増やすことができる紙幣がいまだに仕事や物的価値の等価代償だとみなされている錯誤にあります。これはとうの昔にそうでなくなっています。貨幣は一人歩きしているのです。 重要なポイントは、パン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金は、二つの異なる種類のお金であるという認識です。大規模資本としてのお金は、通常マネジャーが管理して最大の利潤を生むように投資されます。そうして資本は増え、成長します。とくに先進国の資本はとどまることを知らぬかのように増えつづけ、そして世界の5分の4はますます貧しくなっていきます。というのもこの成長は無からくるのではなく、どこかがその犠牲になっているからです。そこで私が考えるのは、再度、貨幣を実際になされた労働や物的価値の等価代償として取り戻すためには、いまの貨幣システムの何を変えるべきなのか、ということです。これは人類がこの惑星上で今後も生存できるかどうかを決める決定的な問いであると、私は思っています… これに続いて、「いま金融システムを問い直すとき」と題された節で、ノーベル経済学者アマーティア・セン教授の言葉が引用されている。機会があれば、また引用するかも知れないが、きょうはやめておこう。ただ思うのは、経済システムがゆらいでいるいまだから、こういう思考が時代の要請にマッチしている点だ。 以上、いずれも年を取るということがマイナスばかりではないことを示す言葉として、選んで記しておいた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 21, 2008 08:39:35 PM
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