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カテゴリ:生活
池田信夫のブログに気になるタイトルがあった(正社員の既得権にメスを)ので、書く気になった。池田信夫の時代は終わったことをおさらいするために本山美彦のブログ「消された伝統の復権」より、まず全体感をつかんでほしい。時代はいま、こういう時代なのだ。
…レーガン(Reagan)政権以降、GOP(Grand Old Party、共和党の愛称)は、規制のない自由な市場というイデオロギーを米国政治の基本に置いてきた。しかし、このことが、米国を金融危機に追いやったのである。 米国は、「金持ちには社会主義、そうでない人々に資本主義、というのが経済的真実である。富者には『心優しい保守主義』、貧者には『市場の規律』が適用されているのである」(Gonsalves, Sean,"Financial Weapons of Mass Destruction, September 22, 2008, http://www.alternet.org/story/99812/)。 デリバティブが猛威をふるった〇八年の金融恐慌は、それがなかった一九二九年の大恐慌よりも深刻さの度合いが大きい。〇八年のデリバティブは全世界で五〇〇兆ドルを超えていたとされている。米国のGDPが一五兆ドル、全世界のGDPが五〇兆ドルであるのだから、デリバティブ契約は全世界のGDPの一〇倍もある。全世界の有価証券保有高が一〇〇兆ドルであったので、デリバティブはその五倍あったのである(Stock Marketwatch, Monday October 6, 2008)。 ジョセフ・スティグリッツ(Joseph Stiglitz)は、ベルリンの壁崩壊が共産主義を終わらせたように、〇八年九~一〇月に生じた金融の動乱は、市場原理主義(market fundamentalism)の終わりを意味すると断定した(Stiglitz[20081016])。 〇八年九月の金融動乱で米国では失業者が一六万人増加した。〇八年中には七五万人の失業増になるだろうとされている。 米国経済は、貯蓄がゼロなのに、旺盛な消費によって支えられてきた。消費を支えるために、米国人は借金を増加させてきた。資本不足に陥った米国の銀行は、国民にカネを貸さなくなった。借金ができなくなるとき、国民の消費は当然抑制される。米国経済の需要は減少し、それは世界の経済を停滞させる。 輸出に経済停滞からの脱出口を求めようにも、米国はドル高に見舞われている。このドル高は米国への信頼が高いからではなく、ヨーロッパの方が米国よりも経済状況が悪いからである。 銀行救済には、二つの方法が議論されている。 一つは、ポールソン(Hank Paulson)財務長官が初期に採用しようとしたもので、政府が不良債権を銀行から買い取るというものである。しかし、買い取る債権の価格を決めることは困難である。そもそも、銀行がつけた証券の価格の妥当性に対しての不信感が蔓延している状況で、政府が価格を設定してしまうことは、政府と銀行との駆け引きになってします。銀行は政府になるべく高く不良債権を売りつけようとするであろう。しかし、証券がその後値下がりしてしまえば、政府は大損してしまう。つまり、国民の税金が無駄に使われてしまう。国民は貧乏籤を引いてしまう。 こうした事態をスティグリッツは、「表が出たら私の勝ち、裏が出たら君の勝ち」(It is a heads I win, tailes you lose situation)、「籤で外れの短い棒を引く」(holding the short of the stick)という諺で表現した(ibid.)。 もう一つは、英国首相、ブラウン(James Gordon Brown)の案で、政府が問題の銀行に資本を注入することである。資本注入とは政府が銀行の優先株(10)を取得することである。スティグリッツはこの優先株取得を推奨する。 そもそも、米国の金融界を主導してきた経済学が間違っていた。情報の完全性を前提し、インフレ・ターゲット論(11)を主張してきたのが、これまでの誤った経済学である。中央銀行の責務は、金利を動かすだけでなく、もっと広く経済全体の安定化を図ることにあるはずである。価格の安定化だけに中央銀行の機能を限定してしまえば、金融機関に投機的なリスクをとることを許してしまう。こうして、経済全体を損なう危険性を大きくしてしまうのである。 つまり、インフレ・ターゲット論とは中央銀行と金融組織との対話を促進するというが、実際には、投機に関しては規制などの行動をと一切とらないということを意味する。スティグリッツは、そういた苦言を呈したうえで、以下のように経済危機の歴史的意味を理解する。 今回の金融危機は、経済関する転換点であることはもちろんであるが、経済学の考え方そのもについて当てはまる。私欲(self-interest)が競争を通じて社会全体の幸福(well-being)を増大させるというのが、アダム・スミスを始祖と仰ぐ経済学の基本的視点であったが、この二五年間で生じたことは、情報の不完全性からスミス的世界は妥当しないということである。それは市場全体にいえる。とくに、金融市場は不完全情報の典型である。エンロン(Enron)やワールドコム(WorldCom)は確かに私欲を追求した。しかし、その私欲は社会全体の幸福を増大させなかった。金融という産業が私欲を追求した結果、経済は底なし沼に沈みつつある。現代経済には政府が重要な役割を演じている。重要なことは根っからの市場主義者がいまや政府に頼っていることである。しかし、その前に、金融崩壊を未然に阻止することが政府の役割であったはずである。現在、金融における公私の間には奇妙な対照性が見られる。私である、金融組織は、利益を確保したまま金融混乱の出口からでていくのに、公の政府は損失を引き受けて金融混乱のだ只中に残されてしまう。こうしたことを避ける均整のとれた制度設計がこれからは必要となる(Stiglitz[20081016])… 以上の文脈で言うと池田信夫なんて、トンデモ学者だし、そんなトンデモ学者に寄りかかられる大竹先輩は、これまたトンデモなのかも知れない。ということで、ちょっとコメント。 正社員の既得権にメスを 大竹文雄氏が、WEDGEで解雇規制について書いている: 整理解雇の4要件のうち、「解雇回避努力」の中には、非正規雇用の削減や新卒採用の停止が含まれており、今回のような不況期には雇い止めという形で、まず「非正規切り」を実施することが司法サイドからも要請されているわけである。[・・・]つまり、非正規社員を雇用の調整弁と位置づけ、正社員の解雇規制と賃金を守っていくという戦略に、経団連と連合の利害が一致したのだ。 大竹さんがなんのために整理解雇の4要件を重視するのかわからないが、司法サイドから言うと契約自由の原則は、労働法に認められないっていうのはわかるだろうか。なぜ一般法である民法の契約自由原則が労働法で認められないのかが、法律音痴の池田信夫にはわかってない。だからこんな整理解雇の4要件みたいなミクロの問題を取り上げて鬼の首を取ったかのように騒ぐ。原則と例外を入れ替えて騒いでるのが池田=大竹ラインだ。労働法の世界では契約自由の原則は認められていない。この厳然たる現実からスタートすれば非正規雇用なんてありえない、例外中の例外の話だということを前提にして話をすべきことに気づいていいのにね。まずはなにが原則でなにが例外か、法学の基本中の基本を押さえないと、単なる馬鹿か、扇動家にすぎないとレッテルを貼られることになる。すなわち、御説が宙を浮く。 ところで、非正規切りを司法サイドが要請しているというが、要件というのは、事実を評価する際のメルクマールであって、評価すべき事実があってはじめて役に立つツールなんだが、それを非正規切りの要請だと解する経済学者の実質論には歯止めがいるだろう。要件を解釈するのはいいが、それは実質論であって、つまりは実質的にはそういうことなんだろうという曲解も自由ではあるが、万人がそのような曲解に肯首するとは思えない。まあいってみれば、陰謀論みたいな少数説だ。法には趣旨というのがあって、要件も規範であるからには、趣旨を考えなければならない。これが法的に正しいアプローチ。あやしい経済学者の少数説的曲解など、趣旨から考えればありえない。ここでは、この要件の趣旨は、いかに労働者を守るかというところにあるのであって、この趣旨からはずれた解釈は、トンデモ解釈である。断じて言う。トンデモ解釈を堂々と胸をはって主張するな!! 要件という規範は運用するためにあるのであって、つまり、規範を立て、事実をあてはめるのだが、法律の運用には正義の観点が必ず顔を出す。この点経済学が功利(赤黒)の観点でものを見るのとは違う。派遣切りに対してお墨付きを司法が与えたという勘違いをしていいわけがない。やはりそこは正義の観点で問題を整理すべきなのだ。そもそも意識すべきは、派遣vs経営者の図式である。派遣vs正社員という図式は空想的な「ためにする議論」だ。派遣を切るのは、正社員ではなく、あくまで経営者の責任。ましてや経団連と連合の利害の一致だなんて、これまた赤黒ではぐらかし、意図的に問題の在り処をわからなくさせているとしかいいようがない。ましてや司法がお墨付きを与えただなんて、司法に派遣切りの責任をおしつけるようなものだ。 したがって、労働市場の二極化に歯止めをかけるためには、非正規社員と正社員の雇用保障の差を小さくする必要がある。たとえば「正社員の労務費削減を非正規社員削減の必要条件とする」あるいは、「非正規社員を削減するのであれば、正社員も一定程度削減しなければならない」というルールを、立法措置によって導入することは直接的な手法となる。 大竹氏は、定期借地権をヒントにした10年程度の「任期つき雇用制度」などによって、雇用形態を多様化することを提案している。景気変動のショックを非正規労働者にしわ寄せする現在の雇用制度は、中高年の余剰人員を残す一方で、若年労働者の技能蓄積をはばみ、日本経済の潜在成長率を低下させるおそれが強い。このような身分差別を撤廃し、正社員の雇用保障を非正規社員に近づけることが合理的である。 さて、ここからは法律を離れて、フツウの常識で考えるが、池田信夫の労務費削減を非常勤講師削減の必要条件とする、あるいは、非常勤講師を削減するのであれば、池田信夫のようなセンセの数を一定限度削減しなければならない、というルールを立法措置によって導入することは、労働市場の二極化の歯止めになる。こんなことを議論してなんのためになるのかね。大竹さんも中高年が家族を抱えていて、給料というのが生活給である現実を知っていて、角をためて牛を殺すようなことを言っていたらあかんわ。池田信夫がちゃんとガッツを押さえた議論してると仮定しての話やけど。あくまで、雇用を守るのは大切だというのはわかるけど、300万人しかいない、派遣労働者(登録型)の問題を騒ぎすぎるのは、セーフティーネットの不備をつくべきところ、論点のすりかえに聞こえたりもする。湯浅誠の見識と現場力にとうてい及ばない不見識のそしりをまぬかれない。繰り返す。論点のすりかえはやめるべきだ。 参考 EU労働法政策雑記帳より「WEDGE大竹論文の問題点」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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