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カテゴリ:生活
前回、特定の個人の死とは関係なく日常は流れて行き、世界は存続して行くので、世界に対して絶望し、対象化・道具化できるようになったと述べた。しかしながら、世界に絶望し、対象化・道具化することと「市場経済」までは若干の隔たりがある。 道具としての「市場経済」に引きずり回される現状を憂うのは誰も同じだ。ただ、「死の恐怖」が「市場経済」を生み出したのではなく、むしろ世界に対する「絶望」が世界を対象化・道具化したことで「市場経済」が育まれた。 いわば「市場経済」は「絶望」に由来するニヒリズムの申し子だ。 ひょっとするとニヒリズムを克服して、世界を対象化・道具化を徹底する、すなわち、市場の生育暦を注視すると市場の暴走癖を糾すことができるのではないか。 ニヒリズムの克服同様、「希望」をもたらす宗教的な規律正しさ、つまり、モラルハザードをもらたさないための律法と祭祀(政治)を要請することで、具体的には、戒律、他者への思いやり、公共の概念などを強調することで、市場を健全化できるのではないか。 この延長で考えると地域通貨への橋渡しがスムーズになる。ニヒリズムを克服するためのツールとして地域通貨という選択肢が存在する。ここで、選択肢という具合に多少の貶めが必要なのは、大掛かりではあるが、フリーバンキングという選択肢もあるからだ。 ただし、フリーバンキングは、歴史的な産物で、理論上は可能だというだけで、地域通貨のような手っ取り早さはない。とにかく等身大で、生活に密着した、身近な存在である地域通貨を、まずは、気づいたところからトライして行くべきであろう。 戒律、他者への思いやり、公共の概念は、宗教的なコミュニティを支えるキーワードであり、律法と祭祀を背後で支えるキーワードである。宗教が万能でないように地域通貨は万能でない。しかし、市場の暴走による社会の機能不全をカバーするツールのひとつとして、期待されるところ大である。 市場を暴走させるのがニヒリズムであるというというのは極論だ。しかし、ニヒリズムがそれに寄与していることは確実だ。ニヒリズムに由来する快楽主義、刹那主義、やけくそや投げやりな感情、自傷他害、テロ、不労所得の追求、搾取の謳歌、自己中心主義、人間中心主義、公(おおやけ)の欠如、コミュニティの解体…こうしたものがモラルハザードを許し、市場の暴走に加担する心性に通低している。 したがって、市場の暴走に対する処方箋として、ニヒリズムの克服を挙げるのは、あながち的外れなことではない。ニヒリズムの克服には、宗教的なコミュニティー、相手の顔の見えるところで、たとえば、それはキリスト教会であってもいいが、そういうリアルな活動を通して、等身大の生活通貨をやりとりする。 それは暴走した市場と隔壁一枚でつながっている、つまり、一般通貨と交換ができてもいいが、そのためには、自治体やNPOといった後ろ盾を仕組み的に整備する必要もある。ここでは話の焦点が拡散するので、立ち入らない。 とにかく、市場の暴走からセキュアな通貨を媒介とした宗教的なコミュニティを前面に据える。そうでないとニヒリズムの克服はかなわないからである。唯一、世界の対象化・道具化に対抗できるのは、宗教という実存的な関与しかありえない。「死」と正面で向き合うには、宗教以外の対抗馬は余りにふがいなく無力である。 人が死んでも世界はまるで何も起こらなかったかのように通り過ぎる、その疎外感がニヒリズムの源泉だ。日常というものはそういうものだと何も考えないで、近代以降、われわれはやり過ごしてきた。その無頓着な楽天主義が市場の暴走を生んだ。みんなが自分のことだけに専念して来た結果が昨今の世界・金融情勢である。 この点をしかと見据え、ニヒリズムから目をそらさない。そのために先達は宗教という伝統を残してくれた。それにすがろうではないか。それに頼ろうではないか。祈りから希望は生まれるのは絶対正しい。祈りからニヒリズムが生まれるとは普通は考えない。ここが私たちのグランドゼロである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 25, 2011 06:25:15 PM
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