アルツハイマー型痴呆について考える
- 半落ち - 原作:横山秀夫, 監督・脚本:佐々部清内容:横山秀夫原作の同名小説を『陽はまた昇る』の佐々部清監督が映画化したドラマ。現役警部がアルツハイマー病に苦しむ妻・啓子の「殺して欲しい」という嘆願に、止むに止まれず首を絞めたという。だが謎が残った。梶が出頭したのは事件の3日後だったのだ。空白の2日間に何があったのか。梶の人柄を信じる志木は粘り強く尋ねるが、梶は頑なに黙秘を続ける。彼が自首するまでに2日間の空白があると判明し、刑事、検事、判事、新聞記者、弁護士らがそれぞれの立場で真実を追う。介護の勉強をし始めてから、アルツハイマー型痴呆の記事などに関心を持つようになりました。主人公は妻のことを心から愛していました。妻にアルツハイマーの症状が出てからも(愛する子供が白血病で亡くなったことで心身ともに弱ってアルツハイマーになります)献身に介護を続けます。途中のシーンで亡くなった息子のためにケーキを用意したり、学校の帰りを待っているシーンは切な過ぎました。また妻は自分の壊れる前に(記憶が無くなる前に)自分を殺してくれと夫に頼みます。そしてとうとう夫は「魂」を失ってゆく姿が不憫で妻の為に妻の命を絶ってしまいます。妻を愛すゆえに最後に殺すことを選んだ夫。一方、例えアルツハイマーになっても「魂」はなくならないと考えている裁判官は被告に求刑通りの実刑判決を下します(実は彼の父親もアルツハイマーを患っているのです)もしも自分の家族が(大切な人が)こうした病気になってしまった時、命を絶ってあげるのが優しさ(幸せ)なのでしょうか?それとも徐々に記憶を無くしていく中でも(日々苦しんで生きている中でも)命をまっとうさせてあげるのが優しさ(幸せ)なのでしょうか?多分後者を選ぶ人が多いと思います。僕も後者を選びますが、それでもこの主人公が泣く泣く妻の命を絶った気持ちもわかる気もするんです。アルツハイマーの人は徐々に記憶をなくしていきます。そしていつか介護している自分のことも忘れてしまうのです。自分が夫だということ(もしくわ彼、彼女だということも)。こんなに辛いことはないでしょう?今まで過ごした幸せな思い出もすべて忘れていってしまうかもしれないのです。「だれもが、親(大切な人)の面倒を見たいと思う半面、逃げたいとも思っている」、この言葉は正直介護する人の心底にある言葉のような気がします。それでもやはり「大切な人」だから介護を続けるんだと思います。そこには(そこにこそ)「愛」があるような気さえします。 この映画の主題は「生きる」ということについて投げかけていると思います。身近な人が、家族が親戚が、そしてもしかしたら自分がなるかもしれない病気、アルツハイマー型痴呆、真剣に考える機会が持てて良かったです。これからもこのような映画や本をみたいと思ってます。アルツハイマー型痴呆=Alzheimer`s Disease 出典: フリー百科事典[Wikipedia]アルツハイマー型痴呆は、認知機能低下、人格の変化を主な症状とする痴呆性疾患の一種である。日本では、痴呆性疾患のうちでも脳血管性痴呆、レビー小体病と並んで最も多いタイプである。アルツハイマー型痴呆には、以下の2つのタイプがある。*家族性アルツハイマー病 (Familial AD; FAD) アルツハイマー型痴呆の中でもごく少数を占める。常染色体優性のメンデル型の遺伝パターンを示し、30~60歳代で発症するもの。 *アルツハイマー型老年痴呆 (Senile dementia with Alzheimer's type; SDAT) アルツハイマー型痴呆の中でほとんどを占める。老年期(通常60歳以上)に発症する。 尊厳死(そんげんし)=Death With Dignity 出典: フリー百科事典[Wikipedia]尊厳死とは、人間が人間としての尊厳を保って死に臨むことである。本来、病死を含む自然死であれば人間は尊厳を保ったまま死にゆくことができるはずである。しかし医療の発達によって延命技術が進歩したため、死を迎える段階でただ「生かされている」だけの状態となってしまうことが多くなった。 こうした状態で死に臨むことを望まない立場から、「尊厳死」の概念が発生し広まってくることとなった。 また、病気の苦痛にさいなまれた状態から解放されて死を迎えるというのも尊厳死の一部である。尊厳死を保つための手段の一つとして、まず苦痛から解放されるためにペインコントロール技術の積極的活用が挙げられる。 そして、無意味な延命行為の拒否(消極的安楽死)も挙げられるが、実際に死を迎える段階では意識を失っている可能性が高いため事前に延命行為の是非に関して宣言するリビング・ウィル(Living Will)が有効な手段となる。末期がん患者など治癒の見込みのない人々が、QOLと尊厳を保ちつつ最期の時を過ごすための医療が終末期医療(ターミナルケア)である。尊厳死を望む根底は「生産性のある人間のみが生きるに値する」という価値観だと、森岡正博は指摘している。「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」という市民団体は、尊厳死という名のもとに、殺人や自殺幇助が一般化する可能性があると主張している