カテゴリ:65 Arden Road
11月16日は、ラシードのPh.D取得のための最終試験日だった。既にドクター論文は提出済みで、後は面接審査を乗り切るのみだった。何しろ20数年にも及ぶ学校生活の集大成の試験で、相当な重圧がかかっていたはずだが、彼は試験日が近づいても苛立つ姿や緊張する様子を一切見せなかった。それどころか、その前日の日でも、むしろ私のレポートの進展やドイツ行きについて心配している具合だった。それが、彼の人柄であり、彼が持ち合わせるしなやかな強さでもあった。
その日、ラシードは夜10時頃に家に帰ってきた。その時私とタリクは、夜遅い夕食を共にした後、居間でしばしの間くつろいでいるところだった。彼は、無言のまま部屋に入って来るなり、私たちに握手を求めてきた。こぼれかけている笑みが、彼の4年間の苦闘が遂に報われたことを示していた。試験は、3人の面接官を前に3時間近く続いたらしい。質問内容は、彼が論文で扱ったものについてで、かなり鋭い指摘が寄せられた。それでも何とか審査にパスし(結果はその日の内にわかる)、その後同僚に連れられお祝いのパーティーに行っていたとのことだ。 それから、その週の金・土は、我が家でもお祝いのパーティーを3日間続けて行った。金曜日は、コトブがビリヤーニという手の込んだ料理を振る舞った。炊き込みご飯のようなもので、ご飯とチキンを何層にも重ねていくのだ。インドでは、一番のご馳走で結婚式などでは必ず出るそうだ。彼はこの時作ったのが初めてだったらしく、ご飯とチキンの量の割合を間違え、何だか少し貧相なお祝い料理になった。 ![]() ビリヤーニをかき混ぜるコトブ それから翌日には私が、やはり人生で初めて手巻き寿司と天ぷらを作った。近所のスーパーでも手に入る生のサーモンとマグロを使い、細巻きを作ろうとしたが苦戦し、パーティーにはそぐわない見てくれの悪い寿司が並んだ。特にタリクは、生の魚を食べることを嫌がり、私たちは最初の一口を食べさせることに苦労した(彼は、注射される前の子どものように、家中を逃げ回っていた)。それでも、2日間とも皆楽しんで夕食の一時を過ごしたし、まだ一人前には成りきれていない私たちにはピッタリのパーティーだった気がする。 ![]() 並べられた寿司を前にするラシード 11月の後半は、何事もなかったようにまた日常の生活に戻った。ラシードは変わらず朝早くに起きて大学に向かい、規則正しい勤め人のように夕方6時頃には必ず家に帰って来た。しかし一方で、ドクター称号の獲得は、ラシードを以前のままではいさせなくなっていた。彼は来年の7月には大学を卒業しなければならず、それは未成年と大人の狭間を漂っているような今の生活を終わりにしなければならないことを意味した。来年からの職場を探すことは優先事項の一つになったが、それより何より彼の頭の中のほとんど全てを占めるようになったことがあった。 それは、“結婚”である。まだ伝統的な家族社会で生きていることが多いパキスタン人にとっては、29というのは結婚するのにもはや若くはない年齢である。実際、パキスタンに住んでいる彼の3歳違いの弟は、既に2年前に結婚し一歳になる娘ももうけている。次男坊のラシードは、家族の中で唯一留学という自由を許されただけではなく、最後に残った独身者だった。実のところ、これまでにも何度も両親から早く結婚するようにプレッシャーをかけられていたのだが、学生の身を理由にその都度要求をはね除けてきていた。しかし、ドクターとなってしまった今、断る他の言い訳を探すことは難しかった お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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にしては写真では立派ですね。天ぷらも作れるとはさすが。
ラシード氏に私からも「おめでとう」を言いたい。 (December 29, 2006 03:33:43 PM)
なんかすごく充実した生活を送ってるみたいだな。
来年キミに会えるのを楽しみにしてます。 そのころには俺も就職決まってるといいのだが・・・。 今年も禊を済ましてきましたが、やっぱどうもお前がいないとねえ・・・。 (December 29, 2006 09:05:11 PM)
天ぷらは、ラシードがインド料理のパコラに似ているとか言って、ほとんど彼が作っていたのですが・・・。次に作る時は、もっとうまくいくと思います。
(December 30, 2006 07:15:10 AM)
で禊とか、バカさ加減では今までの中でもかなりの上位をいってるな。去年より参加人数が減ったのは残念だね。ていうか、卒業できてないのはお前等だけだな。結局のところ。今こそ、M復帰計画を!
(December 30, 2006 07:18:39 AM) |
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