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カテゴリ:コミュニケーション・生活
みんなおかしな「ただの人」【kmizusawaの日記さま】
知り合った当時は、よくいるタイプの人のようにしか思えなかった人が、付き合っていくうちにちょっと変わった一面が見えて、妙に親近感が沸いたりするということが、私には結構あるように思える。 私は、自身をオタク気質で、そういう趣味の人だと認識しているのだが、友人や、そこまで行かなくても職場などでよく話したりする人たちに、時々、どこか自分と似たような部分を感じることがある。 それは、たまたま自分の周りに類友というか、そういう雰囲気のある人が集まってきているのかもしれないけれど、ただ、そうだとしても、最初からその雰囲気が感じ取れていたわけではなく、そればかりか、むしろ最初は「普通の人」っぽく感じていたような気がする。おそらく、縁がなければ、そのまま「普通の人」という印象を持ち続けていただろう。 そう考えてみると、私が身近に接する人に「普通の人」にかぎらず、特定のステレオタイプ的なイメージそのもの、と感じる人はあまりいないように思える。むしろ、そうったイメージを抱きがちなのは普段余り接点のない人のような気がする。 特定のカテゴリーの人たちに対して、ある一定の型やイメージを抱くのは、どちらかといえばそのカテゴリーの人たちとの接点がない、あるいは少ないような気がする。接点が少ないから、メディアや、自分の周囲から語られるイメージや、あるいは、たまたま接した何人かから受けた印象から、ある一定のイメージを抱いてしまうのではないだろうか。 そのカテゴリーに属している人、身近に接する機会が多い人であれば、そのカテゴリーの人たちが、よく言われるほど型どおりでも、一定でもないと感じているように思える。なかにはそのイメージどおりの人もいるかもしれないが。 おそらく、身近に接する機会が増えていけば、抱いていた印象と違う部分も見えてきて、型どおりに見えていたそのイメージも、変わっていのだろうと思う。 大きな都市や駅などといった人気の多い場所に行くと、自分の周りには「普通の人」ばかっりのように思えて、自分が少数派であることをいやおう無しに感じてしまったりするのだけど、それはその人たちとすれ違う程度だからそう感じるようにも感じる。見えやすい部分やそう見せている部分、あるいは強く印象に残る部分から、ある一定のイメージを抱いてしまうのではないのだろうか。 実は「普通の人」もが、あふれているわけでも、「変わった人」がほとんどいないのでもなくて、本人や、周囲の人、すれ違ったりだけの人が気づいていないだけで、「ありふれている」と感じる部分と、「ユニークで変わっている」と感じる部分の、両方の、あるいはもっといろいろな部分がその人の内面には存在しているのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 16, 2007 12:08:04 AM
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