【ソチ五輪】理由。
◆復興への道「ここからがスタート」羽生、被災地に“金の輝き”届けた (スポニチ) 日本の金メダル1号は氷上のプリンスだ。14日の男子フリーで羽生結弦(ゆづる、19=ANA)が、ジャンプでミスがありながらトップの178・64点をマーク。合計280・09点でフィギュア日本男子初の金メダルを獲得した。19歳69日での戴冠は、18歳202日で48年サンモリッツ五輪を制したリチャード・バットン(米国)に次ぐ若さで、男子史上2人目の10代王者になった。金字塔を打ち立てた宮城・仙台出身のニューヒーローが、東日本大震災の被災地に黄金の輝きを届けた。 死力を尽くしたから、スケートの女神が優しくほほ笑んでくれた。演技を終えた羽生が10秒以上、立ち上がれない。少し悔しそうに、でも、どこか誇らしげに大歓声に応えた。不完全燃焼な自身の演技後、一騎打ちになっていたチャンの演技を映像で見た。重圧に負けた世界王者は、羽生を上回れない。戴冠が決まった瞬間、口をついた「Oh my God!」。19歳のニューヒーローが、日本フィギュア界に金字塔を打ち立てた。 「ホントにビックリしている。終わった後は金メダルは駄目かなと思った。五輪で金メダルを獲って言うのも何ですけど、ちょっと悔しい」 前日(13日)のSPで101・45点の世界最高得点をマーク。ロケットスタートを決めたが、緊張から一睡もできずにフリーを迎えていた。冒頭の4回転サルコーで転倒すると、ほとんどミスをしない3回転フリップでも転び、スピード感も欠けた。「全然、動かなかった。ただ、一生懸命やろう、どんな状況でも全力を尽くそうと思った」。後半はトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を決めるなど持ち直し、日本男子初の快挙につなげた。 「フィギュア男子シングルの金メダリストは1人かもしれないけど、日本で世界で応援してくれるみなさんの思いも持って表彰台に立てた。結果として優勝できたってことは、日本人として凄く誇りに思う」 宮城県仙台市出身。大勢の人々の運命を変えた、11年3月11日。東日本大震災で羽生の運命もまた、変わった。仙台市内のアイスリンク仙台で練習中、世界の終わりのような激しい揺れに襲われた。氷はひび割れ、壁が崩れ落ちる。何が起きているか理解できず、スケート靴を履いたまま、四つんばいで外に逃げた。市内の自宅は全壊。避難所生活の4日間は、2畳ほどのスペースに、毛布1枚で家族4人で雑魚寝した。 「震災の後、スケートができなくて、やめようと思って。生活するのが精いっぱいでギリギリ。あの時のことは、あまり振り返りたくない」 拠点のリンクは閉鎖。震災から10日後、東神奈川のリンクで練習を再開し、その後は全国各地で復興支援などのアイスショーに参加した。ショーで滑ることは練習代わりだったが、胸には葛藤があった。「僕が被災者だから、アイスショーに呼んでもらっているんじゃないか」――。被災者というフィルターを外し、一人のアスリートとして見てほしかった。 震災後、数カ月で届いたファンレターは500通以上。津波にのまれたファンがいたことも知っている羽生は、一通一通に目を通した。そして葛藤は消える。「支えてもらっていることに気づいた」。12年3月の世界選手権で銅メダル。今季フリー曲はその時と同じ「ロミオとジュリエット」だ。スケートができる喜び、支えてくれた人への感謝を表すため、震災以降、羽生は演技を終えると深々とお辞儀するようになった。それは夢舞台でも同じだった。 12年5月、ブライアン・オーサー・コーチに師事するため、拠点を仙台からカナダのトロントに移した。「震災が起きたところを離れて、こんなので良かったのかなって思ったこともある」。被災地のことは忘れない。13年3月、カナダのロンドンで開催された世界選手権直前。現地入りした羽生は、震災発生時の日本時間午後2時46分に合わせ黙とうした。時差があり現地時間は午前1時46分だったが、目覚まし時計をセットして起き、そして静かに祈った。 メダリスト会見では、あまり笑わなかった。被災地のことを考えると、どんな表情をしていいのか分からなかった。「僕一人が頑張っても、復興に直接、手助けになるわけじゃない。無力感も感じる。何もできていないって感じる。僕は何ができたのかな」。そして、こう続けた。「金メダリストになれたからこそ、ここからがスタートだと思う。金メダルを獲ったことで活気づいてくれたらうれしい」。君は日本の、被災地の歓喜を見たか。決して無力なんかじゃない。まぶしい黄金の輝きは、復興への道のりを明るく照らした。 持病のぜんそくとの闘いそして、震災。彼は常に「死」を背負って滑ってきていたんだな。心にも身体にも辛い様々な経験が羽生結弦選手の心の刃を研いでいった。さらに鋭く、美しく。彼が演技中に時折垣間見せる「鬼」19歳の修羅の理由がわかったよ。闇は過ぎて光となった金色の(hakapyon心のフィギュア川柳)◆高橋、羽生へ“バトン”「これからは彼が日本を背負っていく」(同上) 今大会に懸けた男たちの奮闘が終わった。10年バンクーバー五輪銅メダリストで五輪3度目の出場だった高橋大輔(27)=関大大学院=は冒頭の4回転ジャンプの失敗が響き、6位入賞にとどまったが、達成感をにじませた。日本男子はバンクーバー五輪に続いて3人全員が入賞した。 「ありがとうございました」。晴れ舞台で最後の演技を終えた高橋は、感謝の言葉を口にしながら、日の丸が目立つスタンドへ頭を下げた。 「出たくてもなかなか出られない中、3回もオリンピックで滑れて良かった。結果は悔しいけど、精いっぱいにやった」 昨年11月に古傷の右膝を再び痛め、直後の全日本は5位と振るわなかったものの、実績と国際大会の成績などを考慮され代表に滑り込んだ。だが、その後も調子は上がらず、不安を抱えたままソチ入り。追い打ちを掛けるようにSP使用曲の作者別人問題なども起きた。それでも「出るからにはトップを目指す」と自らを奮い立たせてきた。 勝負をかけた演技冒頭の4回転ジャンプは両足着氷で3回転の扱い。「2本跳ぶ選択肢はなかったけど、1本は決めたかった」。3回転半からの連続ジャンプでも着氷が乱れ得点は伸びなかった。ただ、表現力やスケート技術を評価する演技構成点では、銀のチャンに次ぐ2番目の高得点を引き出し、前回銅メダルの意地を見せた。「本当にきつかった。これが今の自分の力だと思う」 バンクーバー五輪で日本男子初のメダリストとなり、それを花道に現役引退することも考えた。だが、11年モスクワでの世界選手権でスケート靴のトラブルもあって5位に終わり連覇を逃した直後、競技者としての本能を呼び覚まされ、ソチまでの現役続行を宣言した。「バンクーバーでやめておけばよかったという人もいるけど、いいことも悪いこともあった。続けて良かった」 フリーの演技を終えリンクを出る際、笑顔で次滑走者の羽生と入れ替わった。「これからは彼が日本を背負っていく。五輪の金メダリストが出たことは一スケーターとして誇りに思うし、引っ張っていってほしい」。7歳で初めてスケート靴を履いて、ちょうど20年。日本の男子スケート界をけん引してきた男は静かに靴ひもをほどいた。 「これからは彼が日本を背負っていく。五輪の金メダリストが出たことは一スケーターとして誇りに思うし、引っ張っていってほしい」大ちゃんの試合後の柔らかな表情「ハレバレ感」の理由はコレだったのか。ときに独りでときに三バカ野郎同士で長い間「日の丸」をその身に背負いボロボロの脚に鞭打って跳び、踊り人々を魅了し続けてきた「天性のダンサー」後輩にバトンを渡して重責から解放された軽やかな心で舞う高橋大輔選手のラスト・ダンスが間もなく訪れる。ハレバレとした大ちゃんよ後輩のオダリンと美味しい焼肉食べてくれ(hakapyon心のフィギュア川柳)*******◆織田信成も号泣。高橋・羽生・町田との中継で見せた 仲間との温かい笑いと涙【ソチ・フィギュアスケート】◆テレ東のソチ五輪番組で織田信成が号泣!羽生、高橋、町田らの絆深い友情がネット上で話題に!◆テレ東のソチ五輪番組で織田信成が号泣!羽生、高橋、町田らの絆深い友情がネット上で話題に!ゆづとオダリンは声似てるな。オダリンの人柄が反映された温かいインタビューですね。自分の為に泣いてくれた人達hakaの人生でも幾人かいるけれど彼彼女らのことは一生忘れないと思う。ああ、何故だろういま急にオダリンのスケートが観たくなった。ソチの金メダリストはゆづだけど日本代表ではないけれどもう現役ではないけれど私は貴方のスケートが一番好きだよ。