♪ まだ飽きず見限りもせず続けおり三十一文字の井戸深くして
2010年(平成22年)8月12日に64歳で亡くなった河野裕子さん。乳がんの再発というなかで、産経新聞の紙上で家族エッセーを始めた永田和弘、河野裕子夫妻と息子・淳夫妻、娘・紅。その日常をリレー形式で繋いでいった。それらを一冊にまとめて、彼女の死後に出版された本を読んだ。
「歌なら本音がいえるから」。乳がんの再発した妻・河野裕子の発案ではじめた夫・永田和宏と子どもたちとのリレーエッセー。我が家の糠床のこと。息子の子どもたちのこと、長く飼った老猫の失踪、娘の結婚。そして最後の言葉…。愛おしい毎日、思い出を短歌とともに綴りながら、家族はいつか必ず来るその日を見つめ続けた。 今更、永田・河野夫妻のことを書くまでもないのですが、子二人を含めた家族全員が歌人。個々の想いや家族の状況などを歌に託して世に出して「サザエさん一家」と呼ばれ、家の中のことをみんなが知っているという歌人ならではの、稀有な存在。
河野裕子さんの代表歌はたくさんあって、いろんな書物や歌の指南書などに引用されている。あまりにも高名な歌人なのに、私はその歌集すら読んだことがない。寡聞浅学のド素人。そんな私でもとても共感できる歌の数々。
*たとへば君ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか
*ブラウスの中まで明るき初夏の日にけぶれるごときわが乳房あり
*あるだけの静脈透けてゆくやうな夕べ生きいきと鼓動ふたつしてゐる
*たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり
*君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る
*しらかみに大き楕円を描きし子は楕円に入りてひとり遊びす
*ゆく道に独活はさびしき人に似て束ねられてゐる夕ぐれのくに
*水蜜桃(すいみつ)の雨のあを実のしろうぶ毛ふれがたくしてひとずまわれは
*死ぬことが大きな仕事と言ひゐし母自分の死の中にひとり死にゆく
*新聞紙かぶりて寝をり裏山がゆっくりと息するを身に感じつつ
*とかげのやうに灼けつく壁に貼り付きてふるへてをりぬひとを憎みて
*睡いねむい私のからだは背屈(くぐま)り鉛筆につかまって指さき動く
*蝕の夜の女人の影の重なりの重なる闇ゆ鶏(かけろ)は鳴けり
*手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が
(『蟬声』、辞世) |
そう誰もが「先生」ではなく「裕子さん」と、親しみを込めて呼んでいる。多くの人に支持され愛された歌人はたくさんいるが、こんな人は他にいないようだ。「偲ぶ会」に当って、永田氏がエッセーにその辺りのことを詳しく書かれている。日本中の短歌愛好家が、どれほど彼女の死を悲しんだのか、どれほど多くの人に愛されていたのかがよくわかる。
拡大します。
今年は短歌に対し新鮮な気分で歌を詠んでいきたい気になっている。それで、地元の図書館の短歌研究会に参加してみようと思う。そんな想いと重なって、このような歌人を身近に感じるようになっている。
河野さんの死後に見つかった日記をもとに、永田さんが2人の青春を振り返った『あの胸が岬のように遠かった』(新潮社)を刊行している。
死去の後、遺品を整理する中で十数冊の日記を発見。「すぐに開くことはできず、10年ほど経ってから読み始めた」というそれには、高校生の頃から大学時代に2人が出会い、やがて結婚するまでの7年間の濃厚な時間が残されていた。彼女の心の中に「N」という青年の存在があった。
永田さんは短歌結社「塔」を主宰し、宮中歌会始選者を務めるなど歌人として活躍しながら、細胞生物学者として世界的な業績を収めてきた。「河野と出会い、かけがえのない時間を過ごしたことが、自分の人生の中で大きな意味があったと思います」と。
文芸雑誌「波」での連載時から話題を呼び、テレビドラマ化されて昨年の3月にNHKBSで放映されている。
永田氏の映像はYouTubeなどで観られるのに、河野裕子さんのものがまったく無いのはどういうことだろう。ご本人が認めなかったのだろうか。声を聞いたことがないので、その語り口を聞いてみたいのだが・・
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